ガス・ヴァン・サント『ラストデイズ』

ラストデイズ [DVD]

ラストデイズ [DVD]

 

ガス・ヴァン・サントの映画も、私自身の怠慢によりさほど観ていない。その印象で朧気ながら語るなら、彼の映画は悲劇を描くことで際立つように思う。例えば名高い『エレファント』はどうだろうか。実際に起きた射殺事件をモチーフに描いたあの映画は、しかしその悲劇を淡々と描くことで名作たり得たのではないかと思う。

『ラストデイズ』は、ニルヴァーナのフロントマンであるカート・コバーンをモデルにしたミュージシャンが自殺するまでの数日を描いている。この映画もまた――言うまでもないが――悲劇である。だが、その描かれ方は淡々としていて、そしてシュールですらある。

この映画を観るのは二度目になるのだけれど、例えば訪問販売/セールスマンが訪れて噛み合わない会話をしたり、宗教の勧誘に男たちがやって来たりという場面の旨味を観落としていたことに気づかされる。間が微妙に開いた会話が、ミュージシャンの孤独を描き切っているように思う。

ニルヴァーナのフロントマンが自殺した、その物語……と書くとあるいはもっとドラマティックなものをと期待されるかもしれない。しかし、それはお門違いというもの。『エレファント』と同じテイストを備えており、暖かさ/温もりは感じられない。冷ややかで、それでいて突き放したようなところがない。微妙なヒューマン・タッチとでも呼ぶべきものが備わっているように感じられる。だから、この映画ではカタルシスがない。オチがつかない。「ラストデイズ」の現実なんて、栄光を手にしたミュージシャンでさえもこんな死を遂げるのだ……と言わんばかりの諦念が溢れている。

私は(と、いきなり自分語りをするが)宮台真司の「終わりなき日常」という言葉が好きだ。「終わりなき日常を生きろ」……だが、なんにせよ人は死によってその生を閉じる。だから「終わりなき日常」なんてものはないのである。あるとするなら私が死んでも世界は存続するという端的な事実だ(まあ、マクロなことを言えばいずれこの宇宙は消滅すると語られているが)。だが、「終わりなき日常を生きろ」という言葉は私にとって福音のようにも思われる。不謹慎を承知で言えば、どんな災害が起ころうと悲劇が起ころうと「日常」は続くのだ。

その意味では、『ラストデイズ』は「終わりなき日常」を描いた映画と言って差し支えないのではないか。どんなミュージシャンであっても、どれだけ大規模な栄光を手にしたとしても、それは「日常」の内側にすっぽり呑み込まれる。退屈な、鈍痛すら感じさせる「日常」……その「日常」の中で幸せであること、幸福であることに麻痺してしまいやがて慣れてしまう。そうすればもっと刺激が欲しくなるが、その刺激的なはずの「非日常」もいずれ「日常」に呑み込まれる(そう言えばこの映画ではドラッグが出て来ない。セックス・ドラッグ・ロックンロールとはかけ離れた世界が描かれるだけだ。これは意図的なものだろうか?)。

そう考えてみれば、この映画のフラットな感覚こそがむしろリアルなのではないか。この映画を凡庸なミュージシャンの自殺を描いた映画と見做すことも容易いし、そう評価したくなる気持ちも分からないでもない。だが、私はその凡庸さの中に非凡さを見出してしまう。凡庸なリアルを極めて冷徹に描いた、「間」の取り方が見事な映画。私にとって『ラストデイズ』とはつまりそういう映画だ。ガス・ヴァン・サント、なかなか曲者であるようだ。彼が幸福を描くと何処か陳腐なものに堕してしまう印象を受けるのだが(だから、あまり『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』は好きな映画ではない。『追憶の森』も同じく)、悲劇を描くと際立つ。ユニークな個性と言えるだろう。

とまあ、今回の感想文は私語りで終わってしまった(いつものことじゃないか、と言われれば返す言葉もないのだけれど……)。ロングショットで撮られる冒頭の森の場面の見事さについて語る言葉を私は持たない。あるいは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドが流れる場面の退廃した空気について語ることも難しい。それらはこれ見よがしに撮られるわけではなく、さり気なく撮られるのだ。作為が感じられないところもガス・ヴァン・サントの個性、と言えるのかもしれない。これが貶し言葉に聞こえないことを祈るが、適度に手を抜くことが巧い監督と言うか……。

作為のなさ。我ながらこんな言葉が飛び出してしまったのでびっくりしている。そうだ。ガス・ヴァン・サントの個性とはつまりどんな作為も感じさせずに世界を表現すればどうなるか、ということに挑んでいることに尽きるのではないかと思う。それが、後味が悪い映画を撮り続ける例えばミヒャエル・ハネケの映画とは異なる。ハネケが作為を凝らして悲劇を撮るのに比べて、ガス・ヴァン・サントはどんな作為も持ち込まずに「日常」を描く。「ラストデイズ」……「最後の日々」。なかなか興味深い逸品だと感じられた。

『黒沢清の全貌』

世界最恐の映画監督 黒沢清の全貌

世界最恐の映画監督 黒沢清の全貌

 

本書を読み、黒沢清という人物は天才なのではないかと思った。もう少し言い方を変えれば――金井美恵子氏風に言えば――「映画に愛された男」ではないか、と……「映画を愛した男」は数多と居るだろう(私もそうありたいと思っている)。だが、「映画に愛された男」となるとなかなか居ないのではないか。黒沢清氏の映画は個人的に(二十年前に『CURE』を観て衝撃を受けて以来)ずっと追い掛けて来たので期待してこの本を手にしたのだけれど、その期待を裏切らないだけの力の入った一冊となっている。まだ観ていない『ダゲレオタイプの女』『散歩する侵略者』を観たくさせられてしまった。あるいは本書がフォローしている『LOFT』や、それ以降の『叫』トウキョウソナタ』といった映画を再見させられたくなったこともまた確かだ。それだけの力が籠もっている一冊だと思った。

と同時に、本書を読み私は観客としての限界を思い知らされたことを記しておかなければならないだろう。黒沢清氏の映画は熱心に観ている方だと思うのだけれど、ここまで詳細に分析されてインタヴュー/対談が重ねられ、そして力の入った批評が書かれているというのだから私のような素人の出る幕などないと言うべきではないか。映画というジャンルに対するハードルの高さを改めて思い知った次第である。だからこそ本書を読み、虚心に学ぶ必要があるのだろう。と同時に、このようなハイレヴェルの対談や論考を呼び寄せてしまう黒沢清という人物はどういう人物なのかと疑ってしまいたくなる。嫌な言い方をすれば「天然」なのではないか、と。「天然」であるが故に分析したがる批評家をして止め処なく語らせたくなる人物なのではないかと。

黒沢清氏は映画評論やエッセイを記す監督であり、氏なりの戦略的思考に基づいて映画を計算して組み立てている。それは言うまでもない事実だろう。だが、戦略を越えたなにかを呼び寄せてしまう才能の持ち主でもあるようだ。それは例えば映画の撮影中不思議なタイミングで吹く風であったり、戯れる小鳥が映ったりするという形で現れる。むろんこれは監督の意図を超えた、グッド・タイミングで起こる出来事だ。だというのであればそのグッド・タイミングを呼び寄せる資質とはなにか……黒沢清氏自身言葉にし辛い現場での創意工夫を、蓮實重彦御大や宮部みゆき氏、宮台真司氏やイザベル・ユペールや篠崎誠氏といった対談相手は引き出す。その言葉に導かれて、黒沢氏は自分が無意識の内にやっていた工夫を言葉に置き換えられて納得するという構図が出来上がっているようだ。

黒沢清氏の飄々とした人柄、気さくで気取らない人間性が本書では――黒沢清氏を知らない人でも馴染めるように――あからさまにされている。そんな黒沢氏の言葉を、悪く言えば蓮實氏や宮台氏は我田引水的に自分の理論に持って行こうとしているかのように感じられる。だが、そんな一方的なぶった斬り方で解説されてもそこに(割り算で割り切れなくて「余り」が出るように)語り尽くせなかった深みが姿を表わすことになる。あるいは、人に依って観方が違うものだという当たり前のことを再確認させられる。やや褒め殺しになってしまっている感が無きにしもあらずなのだが、しかし豪華なゲストを迎えた映画トークはそれだけで読み応えがある。

白眉は阿部和重氏の『岸辺の旅』論だろう。これもまた力の入った論述となっており、溝口健二雨月物語』を引き合いに出して映画の謎に肉薄しようとする様が描かれる。阿部氏の映画評を本格的に読むのはこれが初めてだったのだけれど、着眼の鋭さに唸らされてしまった。阿部氏の本格的な「黒沢清論」が書かれることを楽しみにしている。それくらい本書の論述は理知的で、しかもシネフィルならではの映画の造詣の深さを窺い知ることが出来て面白い。私自身『岸辺の旅』を観返したくなってしまった。逆に言えば『クリーピー』『ダゲレオタイプの女』についてもっと充実した対話を読みたかったところだが、まあヴォリュームの関係でこうなるのは仕方がないかと諦めている。

私は自分を「映画を愛した男」であると語った。だが、「映画」とはとどのつまりなんだろうか。スジを追う楽しみ方もあるのだろう。しかしそれに加えて、映画はこちら側がスクリーンに映ったものを見なければ――能動的にのめり込まなければが――楽しむことが出来ないジャンルに違いない。そこでは美術や小道具、セットの組み立て方に対しても留意が施される。私自身映画のなにを観ていたのだろう……と感じさせることしきりだった。同じ映画を観ても千差万別の反応がある……当たり前といえば当たり前の事実に、私はスジでしか映画を追えない自分の迂闊さをはじさせられたこともまた強調しておく必要があるだろう。

ここまでで長くなってしまった。蓮實重彦氏がこんなにも鋭い着眼点の持ち主だとは……と唖然とさせらえること暫し。いや、繰り返しになるが論客を呼び寄せて自らの整理がついていない言葉を巧く相手に引き出させるということは一種の才能ではないか。そんな仲であったからこそ、私は黒沢清氏の「褒め殺し」に終始するのではなく批判的なインタヴューがあっても良かったのではないかと思った。黒沢清をあたかも時代とシンクロし続ける映画作家として語らんとする蓮實氏を唸らさせるインタヴュー/批評があっても良かったのではないか、と……例えばここに菊地成孔氏を持って来たらどうなるだろう?そんな贅沢を言いながらも、充実した読書が楽しめるのではないかと思ったのだ。そろそろ黒沢/蓮實批判を読みたいと思っている私にとって本書は十分な出来とは言えばかったが、黒沢清氏はこれからも映画界を動揺させる映画を取り続けるだろう。それを早速読みたいと思っているところなのだが、どんなことが起こるのか分からない。まあ、世界はデタラメであること、そこから秩序を取り戻そうとする男・女たちのを再確認しておけば問題はないだろう。黒沢清……今後も何度もやってくれそうな気がする。私も瞠目しながら今後の黒沢氏を見守りたい。

宇多丸『ライムスター宇多丸』の映画カウンセリング

ライムスター宇多丸の映画カウンセリング

ライムスター宇多丸の映画カウンセリング

 

読みながら思ったのだった。このような本を読むのは誰なのだろうか、と。

ライムスターの……という肩書きがなくても、もしかしたら「映画評論家」という肩書きだけで通用するのかもしれない宇多丸氏が行った「人生相談」を纏めたのがこの本となる。悩みごとに対してオススメの映画などを引き合いに出して回答を導いて行くというものだ。「人生相談」というものは相当に明晰で強靭かつ柔軟な思考が出来る能力がなければ務まらないだろう。通り一遍のお説教ではなく(そういうものを求める人も居るのだろうが)、相手の悩みの本質を見抜きそれをズバリ指摘する力がなければ務まらない。そのためには読解力も必要となる。ましてや映画を引き合いに出すのである。映画を相当観ていなければ底の浅さが露呈する。

読みながら唸らされてしまった。宇多丸氏が相当に映画に詳しい人物であることは知っていたが(氏の映画評に関しては異論もあるが、私など比べ物にならないだろう)、まさかここまで……と思われるほど多様なジャンルの映画を引っ張り出して来る。それも偏りがない。満遍なく、『スター・ウォーズ』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』からマニアックな映画、ヒッチコックスピルバーグから近年の達成に至るまで幅広く映画について柔軟に触れられる。しかも凄いのは、その映画を引っ張り出す必然性のある「人生相談」となっているところにある。つまり、映画マニアがただ自己満足で映画を並べたわけではないのである。

このようなイロモノ的な企画の(失礼!)書物に対して私はあまり「人生相談」として面白いかどうかを考えずに、つまり映画について楽しく学びたいなという姿勢から臨んで読んだのだけれど本書はそもそも「人生相談」としてしっかりしている。質問者の人生観に対して鋭くツッコミを入れ、考察を練り、相手の問題点を解きほぐし(あるいは相手の悩みに適切な「カウンセリング」を施し)、そして映画について触れるのだ。映画が先にあって「人生相談」があるのではない。逆だ。本書は「人生相談」としてしっかりしており、なおかつ映画がそれに付随するのである。このような芸当は相当の IQ を必要とするだろう。宇多丸氏の思考の明晰さはライムスターのリリックを読んで知っていたつもりだったが、今回も唸らされてしまった。

だから思うのである。本書は「人生相談」として面白いのだ。だが、本書を手に取るのは誰なのか? 私のようなちょっと映画を齧って興味を持った人間から映画通の人物まで、「映画」に興味のある方が手に取るのだろう。しかし、そのような読まれ方をされてしまっては勿体無い。映画ファンでない方、映画を月に三本も観ないという方にこそ――私も最近は映画を全然観ていないのだが――この本を薦めたいと思うのである。本書が切っ掛けとなって映画に触れられるのであれば、これは幸せなことなのではないだろうか。しかし、ここで問題が浮き彫りになって来る。コストの問題で出来なかったのかもしれないが、せめて一本でも DVD のジャケットや映像写真が収められていれば……と思うのである。

つまり、本書は映画ファンでない人間にとって若干不親切な作りになっている。その作品が(『サウダーヂ』のような例外はあるにせよ) DVD で観られるのかどうか、監督は誰で主演は誰なのかをデータとしてさほど書き残していない(つまり、必要最低限のデータしか書かれては居ない)。もちろんそんなことをする手間もないほどに宇多丸氏は縦横無尽に映画を紹介して行く。一回の相談で五本くらいは紹介しているのではないだろうか。だからそんなことをしていてはコストの問題で追いつかないし、これくらいの情報を記したのだからあとはネットで調べてくれというスタンスがそうさせたのかもしれない。だが、画像というかヴィジュアル面でのこだわりが活かされていないことを残念に思う。

とまあ腐すようなことを書いてしまったが、それはあくまでも瑕瑾に過ぎない。本書は映画ファンだけに独占させておいては勿体無いくらい「人生相談」として良く出来上がっている。宇多丸氏は「辛口」なのではない。私は「辛口」なのだろう(つまり毛無し芸……じゃねーよ! 「貶し芸」だよ……が巧い人なのだろう)と思っていたのだけれど、なかなかどうして誠実で丁寧で礼儀正しい方だ。明晰な思考とノリの良い文体で繰り出すその鮮やかな回答はライムスターのリリックのように分かりやすく、かつ深い。だからこそ映画ファンでない方にこそオススメなのである。そしてだからこそ、映画ファンでない方を映画に引き込む作りにして欲しかった、と忸怩たる思いを抱いてしまうのだ。

たまに氏の情熱は暴走する。アイドル論で長広舌を振るうあたりは苦笑を禁じ得なかった。あとは『スター・ウォーズ』に対する思い入れも興味深い。とは言え悪い意味でマニアックな出来になっているのではなく、宇多丸氏のラジオ番組や批評にこれまで触れたことのない方でも、ライムスターの曲を聴いたことのない方ですらあっても映画に引き込むエンターテイメント性を備えていると思う。先述したように映画をもっと齧ってみたいと(のみ)思っていた私には思わぬ掘り出し物だった。本書に欠けているものがなになのかは書いたので、映画ファンでない方にこそ(私も「映画ファン」かどうかは疑問だが……)そのあたりの不親切さに目を瞑って読んでいただきたい。

ギレルモ・デル・トロ『シェイプ・オブ・ウォーター』

不勉強なもので、ギレルモ・デル・トロの映画も『パンズ・ラビリンス』程度しか観ていないのだった。そんな体たらくなのでこの映画を何処まで語れるか心許ないが、兎も角やってみよう。

ストーリーは単純だ。冷戦下のアメリカで言葉を喋れない掃除婦のイライザが、勤務しているラボ/研究所でふと、アマゾンからやって来た異形の存在と出会う。半魚人であるそのフリークは、生体解剖されて殺される予定だった。だが、その半魚人とコミュニケートを試みているうちにイライザは恋に落ちてしまう。許されざる恋。半魚人を生かして逃すために、彼女とその仲間たちはラボの研究員や軍部の人間たちを出し抜き脱出を試みる……というのがスジである。

パンズ・ラビリンス』でもそうだったのだが、ギレルモ・デル・トロはフリーク(ス)を描くのが巧い。この映画の半魚人もその凶暴な佇まい、それでいて何処か可愛らしいとも思われる存在感を巧く描いていると思われる。彼に感情移入する人は多いだろう。『パシフィック・リム』は未見なのだけれど、これは観てみなければと思った次第である。

人魚姫をベースにしたと思しきラヴ・ストーリーは、なるほど細部を見ればリアリティに欠けている。御都合主義的な展開が見て取れるのだ。でも、そのあたりはギレルモ・デル・トロも織り込み済みで撮ったのではないか。『パンズ・ラビリンス』でも――この作品ばかり引き合いに出してしまうところが私の映画的知識のなさを示しているのだけれど――『ミツバチのささやき』をベースにしたファシズム政権のおっかなさを悪夢的なファンタジーを交えて撮っていたのだった。『シェイプ・オブ・ウォーター』でも冷戦のおっかなさをファンタジックな味つけを施して撮られている。

結果として出来上がったのは、レトロスペクティヴな音楽によって味つけされたファンタジーだ。細部は結構ガバガバなのだけれど、それを踏まえてもこちらに伝わるところがあるのは流石、と言うべきだろう。ネタを割ることは慎みたいが、決して甘ったるいハッピーエンドに持っていかなかったのもギレルモ・デル・トロの計算高さを示していて興味深い。『パンズ・ラビリンス』の悪夢のようなエンディングにも似ていて、それは何処か切ない。リアリティの前でファンタジーは無力なのだろうか、という問いを示しているようにも思われる。

異形の者との結ばれ得ない恋愛関係――それを描くにはやや細部が犠牲にされているきらいがある。イライザがどうしてフリークと恋に落ちるのか、そのあたりの説得力が欠けるきらいがあるのだ。イライザの過去の傷をもう少し描いていればあるいはラヴ・ストーリーとして傑作になったのではないかと惜しまれる。だが、ギレルモ・デル・トロの眼中にそういうラヴ・ストーリーとしての計算度の高さはなかったのではないかとも思われてもどかしい。ギレルモ・デル・トロはあくまでフリークを描きたかっただけであり、その興味が突出しているが故にヴァランスを欠いた奇妙な作品、ギレルモ・デル・トロにしか書けない作品として成立しているように思われる。

この映画を好ましく感じられたのは、音楽の使い方の巧さにもある。レトロスペクティヴな雰囲気、今ではもう記憶の彼方となってしまった冷戦当時の雰囲気を――ベタにリアリティを以て描くのではなく――懐かしさ溢れる映像で撮りたかった監督の計算高さがここに見て取れる。途中でミュージカル的な展開を魅せるところもなかなかで、ここで観客を揺さぶりに掛けていると思われる。

異形の者とのラヴ・ストーリーは、しかし決して甘ったるく描かれない。最後の最後、監督はこちらを絶望に突き落とす。このあたり如何にも『パンズ・ラビリンス』を撮った監督らしいなと思われて興味深い。ファンタジーの中に密かに仕組まれたグロテスクな要素。逆に考えればグロテスクな要素から決して目を逸らさずに撮られたファンタジー。単なる夢物語と舐めて掛かっては痛い思いをすることだろう。

手話によって言葉を教わり、意志の疎通が可能であることが明らかになる半魚人。彼に知性があることが分かると、そこでヒューマニズムが働き彼を殺したくないと思う人情が現れる。その人情と、冷戦下でソ連を如何に出し抜くかを考える打算的な――ポジティヴシンキングの本を読み耽る――軍部の男との戦いはなかなかだ。素人仕事で展開される脱出劇の拙さをどう受け取るかは個人に任されているが、私はご都合主義ではあれ無理なく楽しむことが出来た。このあたりも評価の割れるところだろう。

ギレルモ・デル・トロ。あまり好きな監督というわけではないのだが、リアリティを見つめながら独自の世界を築き上げるその意志は買いだと思われた。この監督が次にどのような映画を繰り出すのか、それを観てみたい。映像美を活かしたユニークなものを撮ってくれそうな、そんな予感がする。『パシフィック・リム』も観てみたいと思った。

トッド・ヘインズ『ワンダーストラック』

ワンダーストラック [DVD]

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ダメだな、と思った。この映画は、少なくとも私の心には響いて来るものがなかった。

トッド・ヘインズの作品は『キャロル』程度しか観ていないのであまり詳しく語れないのだが、『キャロル』でもそうだったが彼の音楽の使い方は巧い。そこは好ましく感じられる。『ワンダーストラック』も音楽/劇伴にかなり助けられている映画だなと思わされた。それは認めるに吝かではない。

ただ、裏返せばそれ以上のものがなかったのだ。この映画はふたつのストーリーが入れ違いに展開され、最後にひとつに結びつく。一方はローズという女性をめぐる物語。彼女が生きる世界は映画がサイレントからトーキーに移り変わる時期、つまり大昔だ。もう一方はベンという少年をめぐる物語。これは現在なのだろう(だが、彼がスマホタブレットを持っていないことを鑑みると違うのかもしれないが……)。

この映画を観ていて、私はスティーヴン・ダルドリーものすごくうるさくて、ありえないほど近い』という映画を想起した。あの映画もまた少年の冒険を描いた映画だったからだ……先走りし過ぎたようだ。『ワンダーストラック』のスジを少し紹介すれば、ベンという少年が父親を探してミネソタの田舎から都会に出て来るという話だ。だが、ベンは言葉を聴くことが出来ない。事故に遭って以来耳が不自由になってしまったのだ。都会で彼は彷徨う。その過程で「FRIEND」となる男の子と出会う。彼らは博物館で意外なものを目にする……それが大まかなスジである。

と書いてみたは良いものの、この映画はベンが父親を探す動機が今ひとつ見えづらいきらいがある。何故ベンが必死になって都会に出て来るのか、そのバックグラウンドにある動機づけが見当たらないのだ。闇雲に父親を探しているだけで、彼のファザコン的な性格の肉づけが為されていない。あまり言いたくない言葉になるが、「人間が描けていない」ところがある。それが惜しいなと思わされた。『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』のオスカー少年とその意味では対照的だ。

あるいは、ベンに友だちが出来るあたりもベンの孤独感をもう少し丁寧に描けば良かったのではあるまいか。聾唖になってしまったベンが、例えばそれ故にいじめに遭うとか心を閉ざしてしまうとかそういう展開があっても良かったのではないかと想うのだ。そういう友だちとの交流も説得力を欠くので、取ってつけたような感動しかあとに残らない。その意味では中途半端な作品のように感じられる。

興味深い題材を扱っていることは言を俟たない。耳が不自由な人にとって世界がどう見えるのか……『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』ではアスペルガー症候群発達障害者の人物から見た世界が描かれていたのだったが、『ワンダーストラック』では聾唖者のリアルが描かれる。音が全く聴こえない人が世界をどのように知覚しているか? ベンもローズも耳が不自由ということでは一致しており、同じ悩みを抱えている人間であることが分かる。彼らは意外なところで出会うのだが、それは観てのお楽しみということにさせていただきたい。

だが、無音で映画を展開させていくということは言うまでもなく「台詞に頼らないで映画を進行させる」ということである。気の利いたフレーズではなく、言葉を介さないで――むろん手話は披露されるが――コミュニケーションが行われる。そのコミュニケーションのあり方はこちらの自明性を崩させるものであることは確かだ。言葉によって(お好みの言い方をすれば「パロール」によって)コミュニケーションが成り立つ、その土壌を崩す試みが為されていると言えるのだ。

だから、この映画は野心的である。サイレント・ムービーにも似た側面が見えるわけだからだ。過剰に説明的な台詞に慣れた人間(私も含む)には新鮮に映るだろう。だが、その静寂だけで引っ張っていくには辛いものがあるように感じられたこともまた確かだ。もっと台詞を展開させるなり、言葉を使わないなら使わないなりに斬新な当事者の体験をリアルに描くべきではなかったか。このままでは耳が不自由な人のリアルは描けていないように感じられる。尤も、私は耳が不自由なわけではないのでなんとも言えないのだが――。

従って、この映画は心に響くものがそう感じられない。主人公の動機が弱く、かつ主人公が聾唖の人間として直面する悩みもまた説得的に描かれているとは言い難い。そして「FRIEND」を探す過程も何処かご都合主義的というか、彼らの絆の描き方も弱い印象を受ける。ふたつのストーリーを入れ子で展開させるという手法に淫し過ぎてしまったのではないだろうか。両者はシンクロするところがあり、その意味では脚本の完成度は高い。だが、それ以上のなにかが欲しいところなのだ。ないものねだりだろうか。

ローズのパート、つまりモノクロームの映像は美しい。これは流石はトッド・ヘインズという印象を受けた。こういう映像美の輝きもあとひと捻り欲しかったというのが正直なところ。この映画に興味を持った方は『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』をご覧になることをお薦めしたい。きっと刺激的な映画体験になるだろう。

パブロ・ラライン『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』

ネルーダ 大いなる愛の逃亡者 [DVD]

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前に同じパブロ・ラライン監督の『NO』について言及したことがある。『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』(以下『ネルーダ』と略記)もまた、侮れない映画だと思った。だが、それを何処から書いていけば良いのか難しい。私なりに語れるだけのことを語ってみるつもりだ。

ネルーダとは、第二次世界大戦の時期に活躍したチリの共産党のボスの名前である。終戦後大統領に弾劾されたのが切っ掛けで失脚し、追われる身となる。ネルーダの「逃亡」、詩を書きロマンスに溺れながら明日をも知れぬ毎日を生きる日々は何処で終わるのか……それがプロットである。

ノローグ、という言葉が浮かんだ。この映画は基本的には追われる者としてのネルーダと追う者としての人物であるペルショノーの追跡劇を描いている。ルパン三世と銭形警部みたいな関係、と言えば良いだろうか。ルパン三世がわざと戯れるように銭形警部を挑発するのにも似て、ネルーダはペルショノーを挑発する。手掛かりを残して去る、等など。ネルーダは恐怖の前に沈黙しない。その老獪さは見事だと、私自身も観ながら舌を巻いてしまった。いや、こんな政治家が居たのかと驚かされたのである。チリの情勢には疎いもので……。

で、話はモノローグに飛ぶのだけれど、この映画ではネルーダとペルショノーは対話を交わさない。そこが気になったところである。ネルーダの心中とペルショノーの心中は、あくまで独り言で終わるのだ。それが伝わるとしても、ネルーダの妻や協力者といった第三者を通してでしかない。彼らは直接言葉を交わし合うことは殆どと言って良いほどない。この映画はその意味では、思想犯と政治家が巧みに言葉を交わし合うポリフォニーを持たないのだ(と、ミハイル・バフチンを読んだこともないのに語ってみる)。そこをどう捉えるかが評価の割れ目となるのではないか。

ノローグとして、つまり淡々と人物の心中が吐露されるという展開で進むストーリーは実にスムーズだ。相手に対して問い掛けている言葉は相手に伝わるという保証はない。難しく考える必要はない。自分の部屋でブツブツ独り言を呟くのにも似て、彼らの言葉は閉じているのだ。相手を前にして言葉を発するのではなく、相手が居ないところで発する言葉を呟くのだから。だから、悪く言えば対話のスリルや心理劇という意味での旨味に欠けるきらいがある。いや、かなりサスペンスとしては良い線を行っていると思う。ただ、最後の最後で彼らが出会う場面で言葉が飛び交えばと惜しく思ったのもまた確かだった。

そんなところだろうか。チリの情勢に疎いどころか、南米の政治情勢それ自体を全然知らなかったので、この映画を観ることは勉強になった。とは言え小難しい映画ではない。政治を知らなくとも、普通に逃亡者と追跡者のドラマとして観ることが出来る。ただ、さほど劇的に盛り上がらないことは強調しておいて差し支えないと思う。この映画はむしろ、ペルショノーが「自分はネルーダにしてやられた、脇役的存在なのではないか」という自問自答を切実に行う心理劇なのだと捉えた方が良いかと思う。もちろんネルーダの心理も。自分は正義漢なのか、それともただの傲慢なファシストなのか。

今となっては共産主義の敗北は明らかだからさほど説得力を以て感じられないかもしれないが、共産主義が魅力的だった時代に「共産党員になればあなたと同じように生きられるか、それとも私のまま生きるしかないのか」というようにネルーダに問う女性の願いは切実だったのである。ネルーダがどう答えるかは観てのお楽しみということにしておくが、この切実な問い掛けは時代がどう変わり政治情勢がどう変わろうと常に民衆の側から問われるべきアクチュアルな問いであると言えよう。今のリベラルならなんて言うのかな?

小ぶりでキュッと引き締まった、ところどころ(特に大雪原での追跡劇のあたりで)やや地味ながら盛り上がりもあり観どころも感じさせる秀作だと思った。だからこそ、である。ネルーダとペルショノーのアイデンティティの問題に映画が固執し過ぎて、エンターテイメント性を備えたものとして仕上がらなかったような印象を受ける。それも監督の計算の内なのかもしれないが……ともあれ凡作だとは思わない。興味があるなら観て損はない映画だと思う。なにより題材が良い。どマイナーな政治家(失礼!)を扱って社会派的にアプローチした作品だと思う。

この監督、ナタリー・ポートマンを主役に据えて『ジャッキー/ファースト・レディ 最後の使命』という作品を撮っているそうだ。ナタリー・ポートマンもなかなか売れない女優で、『ブラック・スワン』で汚れた役を見事に演じていたのが印象的なので気になっているところ。ゴダールを観ている一方でこんなどマイナーな監督(これもまた失礼!)を追い掛けている自分もなんだかなという気がするのだけれど、音楽に関しても文学に関しても、どマイナーなものを追い掛けない嗅覚の持ち主を私は信頼しないのでこれで良いのだ! と締め括る。

セバスチャン・レリオ『ナチュラルウーマン』

ナチュラルウーマン [DVD]

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私はメンタル面で男であり、かつフィジカル面でも男である。その意味ではストレートである(敢えて「ノーマル」とは言うまい)。しかし、もし仮に心の性が身体の性と一致しないとするなら、その人間は巨大な矛盾を抱えて生きることになる。その辛さは想像を絶するものだろう。『ナチュラルウーマン』を観ながら、そんなことを考えた。

セバスチャン・レリオ『ナチュラルウーマン』は非常にシンプルな映画である。あるトランスジェンダーの人物であるマリーナが、ボーイフレンドのオルランドと暮らしている。だが、オルランドは突然の死を遂げる。オルランドの葬儀に出たいと考えるマリーナは、しかし彼女(と敢えて書く)の性を理解しないオルランドの家族たちに止められる。なんとかして葬儀に出たいと考える彼女だったが……というのがプロットだ。ちなみにこの映画、音楽はマシュー・ハーバートが手掛けている。そう考えるとその渋さに納得がいくというもの。

私の話をする。私自身、自分がどうして普通/ノーマルじゃないんだろうと自責の念を感じて生きていた時代がある。今でこそ発達障害という言葉が通じるようになって世間の理解――もちろん、当事者も世間を理解する寛容さ/多様性を持つべきなのは言うまでもないが――が進んで来たが、かつて「アスペルガー症候群」だった頃は見た目で理解されるような障害ではなかったので、苦しい思いに悩まされていたのだった。その意味でマリーナの生きづらさは、マイノリティの生きづらさであり理解されない者の生きづらさとして共感出来るところがあった。

だが、この映画はくどい印象を与えない。お涙頂戴ではないというか、非常に淡々としているのだ。頓珍漢が売りの私なのでまたしても頓珍漢なことを書くが、この映画の静謐さは例えばホセ・ルイス・ゲリンの『シルビアのいる街で』にも似ているように思った。洗練された都会的/アーバンな撮り方/語り口で綴られる映画だなと思ったのだ。光の当たり方の繊細さ、凝り方が単純なようで深味を備えているな、と。この監督、これ以降の作品もチェックしてみたいと思わされた。話題が先行して内容が空疎な映画であるわけではない、と。

LGBTQ の生きづらさを語るとなると、どうしてもセンセーショナルな語り口が求められるきらいがある。炎上目的、と言えば伝わるだろうか。繰り返すが話題性だけが先走り内容がお粗末という結果に下手をすると堕ちかねない。その意味でこの映画はマリーナの生きづらさを、メロドラマティックにというのではなく地味に、しかし手堅く描いているように思われた。二箇所ほど凝り過ぎな演出が観られるが(パントマイムよろしく逆風が見えない壁となって立ちはだかる場面、天井に飛翔する場面)、それ以外は地に足が着いていて理解出来る。

裏返せば、理解出来てしまうが故にこちらの期待を裏切らない LGBTQ 観で留まっているという危惧も感じなくもない。ただ単に弱者の側からオカマ呼ばわりされる人間の辛さを説いているところに留まっていて、その状況を打破するなにかを見せてくれない……というと酷だろうか。オカマ呼ばわりされることに甘んじないマリーナの行動はその意味でもっと注意深く観られる必要がある。個人的に LGBTQ に関しては――私自身、そもそもフェミニストでもなんでもないので――語れば語るほどボロが出てしまう無理解があるからなのかもしれないが、その落ち度を踏まえても難しい映画だと思わされた。

ともあれ、あまり期待しないでチリの新鋭の監督の映画というだけで手にしてみた映画だったのだが、結果としては大当たりというところに落ち着く。先にも書いたけれどホセ・ルイス・ゲリンシルビアのいる街で』のような、地味で落ち着いた映画が好きな方なら観てみても損はないのではないかと。私自身が今なお発達障害者として生きづらさを感じているからか、マリーナの「困難が人を強くする」と自分に言い聞かせる姿は沁みるものがあった。世間の無理解に対し、しかし被害者面するのではなく愚直に「NO」と言い放つ、そんな凛とした逞しさを感じたのである。

マリーナは最後の最後、ステージで歌を歌う。彼/彼女はその瞬間、性差を超えた人物として――「歌姫」ではなく!――ソプラノ(?)を響かせる。そんな締め方の深味も含めて、良い映画だと思われた。これもまた繰り返しになるけれど、マシュー・ハーバートによる音楽も秀逸。さほど予算が掛かっていない映画だと思う。小ぶりだけど、キュッと引き締まった映画、というか。これからどんどん LGBTQ と「ノーマル」の「相互」理解が進んでいく時代の風潮が増している。その時代の流れを読むためにも、この映画をお薦めしたいと思う。