山崎まどか『優雅な読書が最高の復讐である』

優雅な読書が最高の復讐である 山崎まどか書評エッセイ集
 

乙女であることは、ことに依るとマッチョである以上にタフネスを必要とするのではないか。外部の、取り分け野郎の干渉から抵抗して、己の美学を磨き上げるわけだから。山崎まどか氏の著作を読んでいると、まずなによりもそのタフネスに感心させられる。声高になにかを主張するわけではない。ただ、凛として己のペースで本を読み、映画を観て音楽を聴く。その佇まいが不思議とこちらの胸を打つ。それは何処までも真摯でそして丁寧だ。ひとつひとつの作品に対して丁寧に接し、決してあっさりと消費しないで己の中に取り込んで、そして蚕が糸を紡ぎ出すように美しい一本のコラムを書く。それはザ・スミスが一曲一曲丁寧に己の美学を形作って行ったのと似ているようにも感じられるのである。

『優雅な読書が最高の復讐である』を読み、私は改めて唸らされてしまった。私自身の怠慢がバレてしまうのだけれど、本書で紹介されている本を私は全くと言っていいほど知らない(読んでいない、というだけではなく「知らない」のだ)。山崎氏がフォローしている領域はどんなに広いものなのか、読んでいて愕然とさせられる。山崎氏の単著や長谷川町蔵氏とタッグを組んで書かれた著書を読んで山崎氏の勉強量の凄さは予め知っていたつもりだったのだけれど、こうして一冊の本に纏め上げられてしまうと改めて言葉を失ってしまう。しかもそれでいてイヤミなところがないのだ。著者が本を好きであることが、鬱陶しくなく伝わって来る。

本書で拾われているのは、主にアメリカの若手作家の作品を中心とした作品群である。これは別段不思議なことではない。先述したように長谷川町蔵氏とアメリカのユース・カルチャー/ヤング・アダルトな映画やドラマを論じた著書を書いている山崎氏である。だから彼女の専門領域に著作のセレクトは偏っている。未邦訳の著作なども積極的に紹介されていて、山崎氏のアンテナの鋭敏さには唸らされざるを得ない……さっきから唸ってばっかりなのだけれど、文系の女性のセンスの良さ、私のような田舎者には決して真似出来ない都会の女性のソフィスティケートされた感性と知性がここでは発露されている。それはフリッパーズ・ギターの音楽にも似て、一種の「芸術」の域に達している。

固有名詞を羅列した、情報量の多い文章……悪く言えばそれだけペダンティックで人を選ぶ一冊、ということになる。だが、私は悪く言いたくない。本書を読んで私は早速B・J・ノヴァクの本を読みたくさせられてしまった。本書が切っ掛けでそうして知らない作家に出会えること、それこそがなによりの喜びなのではないか。この本は鬱陶しくない程度に私を語り、なおかつ作品についても真率に語っている。なかなか真似出来ない芸当だ。このヴァランスの良さは天性のものと言っても差し支えないのではないか。とってもスマートでお洒落で、そしてどこか高貴でツンと澄ましたところがある一冊。私は本書をそのように受け留めた。

それにしても著者のフォローの幅の広さには驚かされる。いや、「乙女」というキーワードで全て結びついてしまうからなのかもしれないけれど、多和田葉子『聖女伝説』やミランダ・ジュライ岸本佐知子氏からヴァージニア・ウルフ、そして現代のアメリカ作家……自由自在にジャンルを飛び越えて山崎氏は本を読み、そしてそれを一篇のコラムに仕立て上げてしまう。それはとても分かりやすくこちらを唸らせる(まただ!)出来となっている。私は山崎氏の世界を踏み荒らす野郎の側に居る人間なのだけれど、そんな野郎が遂に持てない芯の強さを備えているように感じられた。これは是非森茉莉を読んでみたい……と思わされた次第。

本書は例えば白いページとピンク色のページ、青色のページとカラフルな構成になっておりそれもこちらの目を引く。むろん著者の意図的なものなのだろう。読ませる工夫が施されており、比較的スムーズに読める。このあたりもまた唸らされるポイントになってしまった。お洒落……他に語彙がないのでどうしてもこうした貧しい表現になってしまうのだけれど、山崎氏がこうした喩えを嫌うかもしれないことを承知のうえで言えばアズテック・カメラやザ・スミスといったグループが繊細なコードワークでこちらを惹きつけるように、技巧を凝らしてこちらを読ませようとするアートワークとなっている。そう考えてみれば表紙もまた潔くてお洒落ではないだろうか。ジャケ買いする読者も多いのではないか?

本書はもちろん「乙女」、つまり池澤春菜氏のエッセイを好んで読む読者にお薦めであるのだけれどそれと同じくらい柴田元幸氏や岸本佐知子氏、あるいは松田青子氏や鴻巣友季子氏といった翻訳家やエッセイストを好む人にもお薦めしたい。アメリカ文学の最先端の潮流を知ることも出来るし、オールドスクールな日本の少女文学を知ることも出来る。本書を片手に古本屋や図書館、そしてもちろんリアル書店を探ることで本書の魅力は倍増するだろう。上品で真摯な、そして切実な筆致はこちらの胸を打つ。イヤミになることなくこちらを読書の愉悦に誘うという意味では、なかなか侮れない一冊である。フリマで買った服でお洒落をするような感覚で楽しむことをお薦めする……と書いて、これ以上の言葉が出て来ないことにまたしても唸りつつ、強引にこの文章を〆ることにする。

若林恵『さよなら未来』

ミニコミ/同人誌に手を染めていたことがある。本当に作家になりたかった時のことだ。結局雲散霧消して終わってしまったのだけれど、自分で雑誌を作る喜びというものがあることを僅かながらに知った。文学フリマといったイヴェントが催される理由が分かる気がした。プロフェッショナルな編集者はどんな気持ちで雑誌を作っているのだろう?

若林恵という書き手の存在は全然知らなかった。なにせ男性か女性かさえ分からなかったのだ。タイトルとページ数、そして値段と私がそれなりに好きなミュージシャンの tofubeats が関わっていることを知って買うことに決めたのだった。私はこういう無茶な買い物を良くする。結果から言えば本書はアタリだった。面白い本を読んだ、と思わされたのだ。

若林氏は『WIRED』の元編集長。『WIRED』は読んだことがないのだが、時流/トレンドの最先端を行く、カルチャーを遍く紹介した雑誌であることくらいは察しがつく。そんな雑誌の編集長はどんなポリシーで『WIRED』と、そして読者と関わっているのか。本書はそんな著者の巻頭言やエッセイを纏め上げた一冊である。フクシマを挟んで、その時々の状況に果敢に様々な切り口から発言を行っている。

読みながら唸らされてしまった。私自身はバリバリの文系なので理系の知(識)というものを持ち合わせていなかった。本書では人工知能技術やロボット、バイオ科学といった分野が守備範囲としてフォローされている。最先端の知見を平たい文体で紹介しているのだ。その読み応えはたっぷり。なかなか侮れない一冊だと思った。普通こういう時評は時間が経つと情報の鮮度が落ちて腐ってしまうものだが、そんな臭みは全然感じられない。一編一編の文章を読む度に唸らされてしまった。丁寧な仕事をしている、と思わされたのだ。私自身が詳しいと自負している音楽やその他のポップカルチャーに関しても詳しい。新しい知識人の姿を見た気がした。

ただ、途中のディスクレヴューはどうだろうか。本書にはブックオフで購入した音源のレヴューが収められており、それはそれで読み応えがあるのだけれど時評と関係のない文章なのでなんだか趣味の羅列を読まされているような気になる。脱線して事故っている、とさえ言える。良く言えばヴァラエティに富んだ五目寿司的な本だとも言える反面、悪く言えばそれだけバラバラであるとも言える。楽しめるかどうかはかなり難しいところだろう。ディスクレヴューは手遊びの域を出ていないように思われる。もちろん、私なんぞの駄文よりはクオリティは高いことは認めるに吝かではないにしろ――。

著者の視線は、小津あるいは是枝裕和氏の視点に近い。小市民的な視点、とでも言おうか。インテリの気取りがないのだ。地べたからこちらを見渡している、地に足の着いたアーシーな見解/意見が人肌の温もりを備えてこちらに伝わって来る。それは先述したように平たい。この本から例えば人工知能ビットコイン、あるいはプリンスやデヴィッド・ボウイの音楽へとワンステップ勉強/トリップすることだって充分に可能だ。本書を片手に図書館やリアル書店、あるいは SpotifyApple Music を探索することも悪くない。

悪く言えば、その分過激ではないということになる。水準点は取れているが、極端に尖った書物とは言い難い。でもまあ、炎上マーケティングに必死な論客が数多と居る中で若林恵氏のスタンスは貴重であることは間違いない。私自身は若林氏の「コンテンツ」をめぐる見解に唸らされてしまった。器を作るのに必死なあまり、その中身である音楽やその他の情報の質がなおざりになってしまっている現在に警鐘を鳴らす若林氏のスタンスは、雑誌の最前線で勉強を積み重ねて来た方の意見として読むとなかなか示唆的だ。腐すようなことを書いてしまったが、私自身は読み終えて良かったと思う。この先、二周目・三周目と読み返すこともあるだろうと思う。

2010 年から現在まで。それはつまりフクシマを挟んでフェイクニュースが乱立し「ポスト・トゥルース」、要するになにが真実なのかを見失ってしまい「fact」ではなく「opinion」がのさばる時代となってしまったことを意味する。「fact」なんてどうでも良いとばかりに暴走する大統領や総理大臣と、彼らを引きずり下ろそうとヘイトスピーチを繰り広げる過激な勢力が罵り合いを繰り広げる中、一旦頭を冷やして本書の冷徹にして良い意味で(イヤミではなく)微温的な著者の視点から学ぶべきところは多々あるのではないか。本書はこれからどんどんデタラメになって行くこの世の中をサヴァイヴして行くためのヒントを備えているとも思う。『WIRED』に載っていたから、と言って敬して遠ざけるのはもったいない。もっと広く読まれて、「使われる」べき本だ。私自身ピーター・トゥール『ゼロ・トゥ・ワン』を読みたくさせられてしまった。本書を片手に、さあ勉強だ!

絓秀実『増補 革命的な、あまりに革命的な』

増補 革命的な、あまりに革命的な (ちくま学芸文庫)

増補 革命的な、あまりに革命的な (ちくま学芸文庫)

 

遂に絓秀実氏の著作を文庫で読める日が来たのか、と嬉しくなってしまった。高校生の頃に斬新だった(なんだったら前人未到と言っても良い)「チャート式」文芸批評を行っているのを読んだことに衝撃を受け、また小林よしのり宅八郎の論戦や筒井康隆氏の断筆宣言問題で果敢に論陣を張る姿に感服させられて以来一ファンとして――全ての著作を読んだわけではないにしろ――絓氏の足取りは追って来たつもりだった。この『革命的な、あまりに革命的な』(以下『革あ革』と略記)も単行本版を買って積んでいたのだけれど、結局読まないまま今日まで来てしまった。恥ずかしい話だ。今年が「六八革命」から五十年目にあたることから文庫化が実現したのだろう。なにはともあれめでたい話だと思われる。

本書は 1968 年に起きた世界的な革命をめぐって語られる著作である。この年は政治的な活動が起こった。日本では全共闘活動が起き国内が揺れ、文化的にもポップ・カルチャー/サブカルチャー(映画・文学・演劇など)で不可逆的な変容が起こった。絓秀実『革あ革』はその変容を例えばラカンジジェクドゥルーズガタリを用いながら読み解こうという野心の表れである。なにかにつけて「六八革命」に触れて来た絓氏だが――絓氏自身当事者として 1968 年を生きただろう――この本は言わばライフワークと言える。

と書くと難解な著作を連想されるかもしれないが、別段ラカンジジェクを知っていないと読めないという本ではない。絓氏の著作は論理のアクロバット/不真面目さで読ませる面白い本が揃っている。見掛けは難解に見えるかもしれないが論理をきちんと筋道立てて読み進めて行けば絓氏の論理が柄谷行人氏よりも明晰であることが分かるはずだ。戦後民主主義やニューレフト、全共闘といった背景を知らなくても(もちろん、知っているに越したことはないが)スラスラと読めてしまう。私自身不勉強な読者なので、本書から教えられることは多かった。

ひと口で言えば、今では回顧の対象となり「黒歴史」となってしまっている左翼の活動が今なお見直すに値するアクチュアルなものであることを指摘している。それに尽きるだろう。その一点を確認するために絓氏は大江健三郎を論じ詩を論じ、演劇に触れあるいは経済学を引っ張り出す。絓氏はさり気なく全共闘について触れている大塚英志氏の論考などに触れて連合赤軍をめぐる問題を論じてもいるのだが、ややもすると単にセンチメンタル/感傷的な昔話に陥ってしまうところを辛うじて回避して今なお「六八革命」が続いていることを確認することに終始している。だから悪ノリ感はそんなにない。笑える場所があるのが絓氏の著作の良いところだと思うのだけれど、本書にはそういうところはない。その点、やや期待外れな印象をも抱いた。

「1968」をめぐって小熊英二氏や四方田犬彦氏といった論客が著作を発表している。読んでいないのでフェアに対比することは出来ない。だが、例えば(なんの脈絡もなく挙げてしまうのだが)全共闘をめぐる言葉は先に述べたようにややもすると挫折した理想として語られてしまうことが多い。山下敦弘マイ・バック・ページ』のような映画、あるいは村上春樹ノルウェイの森』のようにだ。だが、それは「歴史修正主義」というものではないだろうか。あの理想を間違いだったとして全否定して日常に回帰すること、それは反動的/非現実的な営みではないだろうか。「六八革命」が恥だったとするならその恥をも引き受けるべきではないか……絓氏はそう語っているかのようだ。

本書はその意味では「恥」をも全面的に引き受けて、ひとりで(本当に「たったひとりで」)「六八革命」の永続を引き受けている著者の野心が伺える。私は当時を生きていたわけではないので、絓氏の歴史認識や文学論が何処まで正鵠を射るものなのかもちろん確認のしようがない。難を言えばこの流れで大江だけではなく中上も論じて欲しいと思ったところだが――中上健次が名前すら出て来ないのは残念に思う。中上もまた「六八革命」を引き受けた作家ではなかったか――瑕疵に過ぎない。二読・三読に耐え得る、時代の流れに呑み込まれて古びてしまうことのないマイルストーンとなっているのではないかと思った次第である。この流れで絓氏の初期の著作が文庫化されることを期待したい。

近年の絓氏は、『早稲田文学』の金井美恵子特集号に寄せられた文章でも思ったことだが本当にしつこく「六八革命」に拘泥し続けている。ということは文学で言えば金井美恵子や先に述べた中上、深沢七郎あるいは(やや時代が遅れるが)村上龍といった作家を引き受けて――あるいは後藤明生も?――論じる覚悟があるのかもしれない。金井美恵子にいつもやられっぱなしという印象を抱く絓氏が、ここで刺し違える覚悟で金井美恵子論を書いてくれれば面白い……そう思いつつ拙い筆を置く。

真魚八重子『バッド・エンドの誘惑』

 

何故バッドエンドで終わる映画は作られ続けるのだろう? 本書を読みながら、そんなことが気になって仕方がなかった。辛い現実を忘れるためにハッピーエンドの映画に耽溺する……そういう心理が働くことの方が普通ではないか。頭木弘樹『絶望読書』の感想文でも書いたが、何故後味の悪い映画、もっと言えば「絶望」を描いた映画に人は惹かれるのか。それは人それぞれであろう。辛い現実を忘れさせてくれるような映画(例えば『ラ・ラ・ランド』)がともすれば絵空事のようにしか思えないため飽き足りなくなってそうした映画に人を走らせるのか、もしくは逆に「厭な映画」をこそ求めてしまう心理が私たちの内にあるからなのか。私自身わざわざ「絶望」を描いた「厭な映画」を求めてしまう気持ちがないわけでもないので、そこで考えは止まってしまうのだった。何故「バッドエンドの」映画は人を「誘惑」するのだろうか。

本書は真魚八重子氏が書き下ろした、「厭な映画」つまり「バッドエンド」で終わる映画をめぐる書物である。具体的にはビリー・ワイルダーサンセット大通り』やルイス・ブニュエル『エル』といった古典からギレルモ・デル・トロクリムゾン・ピーク』まで新旧問わず多くの映画が俎上に乗せられている。この書物に載っていること自体「バッドエンド」であるということも明らかになるし、あるいは本書はネタを積極的に割って行くという姿勢を取っているので気になる映画が収められているという方はそうした映画を観てから挑んだ方が賢明であろう。私は未見の映画も数多くあったし、辛うじて観ている映画であっても解釈が私と異なっていたので「そうか、そういう観方もあるのか」と刺激を感じたことも確かだ。だからネタを割られた映画であっても(いや、そうであればなおのこと)観たくなってしまった。まずは韓国映画から観て行こうか……そう思わされたのだった。その時点で「勝ち」であろう。

本書は志が高い。例えばこのような「厭な映画」、つまり「バッドエンド」の映画を挙げようと思えば挙げられたはずのラース・フォン・トリアーミヒャエル・ハネケ作品を本書では一本も取り上げない。ざっくり言ってしまえば、そうした両者の映画は人を積極的に「厭な」気分にさせるように仕向けている。悪意がある、と(こんな表現は真魚氏は使っていないが)言っても良い。そしてそれは、どうしても内発的に「厭な映画」を撮らざるを得ない監督の映画とは似て非なるものなのだ、と氏は語る。そのスタンスに関しては賛否両論があるだろう。あるいはチョイスの中には「この映画が何故入っていない?」と不満を抱かれる向きもあるかもしれない。古今東西の映画を取り入れたヴァラエティに富んだガイドブックになっていると個人的には判断するが、そう思わない方も居られるだろう。

あるいは、真魚氏がやっていることは結局「スジ」を紹介することにこだわった紹介ではないかとも言える。本書は喩えるなら DJ が音楽をミックスして一枚の流れに纏め上げたような書物だ。一本一本に本格的に評価が施されていると言うより、全体の流れの中で一本一本の映画がパーツとして機能していると言うべきか。だから映画それ自体の魅力が何処まで浮き立つものになっているか評価は難しい。私はなんだかんだ言ってこの書物を読んで韓国映画に関する無知を恥じさせられ、早速ポン・ジュノパク・チャヌクといった監督の映画を観たくなってしまったのだがそうした読者がどれだけ居られるのかは難しいところだ。

「スジ」を取り上げて云々、と私は書いた。ないものねだりであることは承知しているが、本書はその特性上どうしても「スジ」や「構造」にこだわった書き方が為されている。むろんその分析自体は見事であるが、逆に言えば「この映画の見どころはここだ」というような光るショットに人を誘わないところも弱みとして挙げられる。むろん、そんなショットの凄味を無視しているわけではないが映画が映画としてどのように「バッドエンド」を獲得しているかを説明するためにはそうした「スジ」の旨味をこそ分析しなくてはならなかったのだから、アカデミシャン気取りのショットやシーンの深読みは本書では禁欲されている。私はそれを真魚氏の誠実さと評価したい。これについては『映画なしでは生きられない』を参照されたい。氏の不器用なまでの誠実さは貴重だと思う。

本書で読み応えがあったのは先述したような韓国なら韓国、イギリスならイギリスの映画をギュッと絞ったテーマで纏めたところである。見通しの良さがあった。逆に言えば(一度しか読んでいない筆者の怠慢を指摘されても仕方がないが)それ以外の箇所は今ひとつベースとなっているテーマがどんなものなのか見えづらいきらいがあった。だから縦横無尽に映画史の知識を引っ張り出して来る真魚氏の博識には驚かされつつも、しかし同時に散漫な印象を拭えなかったことも事実である。真魚氏の中でそうした映画は必然的に結びついているのだろうが、それが真魚氏個人のこだわりの域を出られなかった印象を抱いたのも限界として感じるので難しいのだった。もっと意外性のあるチョイスが為されていれば(例えば如何にも「ハッピー・エンド」として終わる映画が実はバッドエンドなのではないか、という捻った指摘があれば)輝いたのではないか、と。

物足りない、とは言わない。丁寧に作られた好著であることは間違いがない。だからこそ贅沢を言ってしまいたくなるのだ。「厭な映画」に人を誘うだけの魅力はある。だが、だからこそもう一歩踏み込んで冒険する勇気が必要だったのではないか。一般的な常識に対して唾を吐く姿勢というのか……そのあたり残念に思う。とは言えクオリティが低いとかそういうことを言いたいわけではないので、興味のある方はまず真魚氏の『映画なしでは生きられない』を読まれることをお薦めしたい。あの本が相性が合うというのであれば本書は充分に満喫出来るだろう。なんだかんだ言って文句をつけてしまったが、真魚氏の誠実さは応援したいし今後も著作を読めることを楽しみにしている。まずは『オールド・ボーイ』を観るところから始めようか。

真魚八重子『映画なしでは生きられない』

映画なしでは生きられない

映画なしでは生きられない

 

読み終えて、本書のタイトルに唸らされた。確かに真魚八重子氏は「映画なしでは生きられない」人なのだろうな、と。

何故映画を観るのだろうか? それは人に依るのだろう。ヒマ潰しとして。趣味として。嗜好として。娯楽として。「お勉強」として。あるいはトレンドについて行くために……私は基本的に映画についてはあまり良い観衆ではない。観ている本数も僅かだし、観た映画についてさえもあまり縦横無尽に語れない記憶力の悪さを露呈してしまっている。それでも映画を観続けるのはまあ、私なりに楽しんで観ているからである。私は「お勉強」は苦手だしトレンドも興味がないので、テキトーに目についたものを片っ端から観ているのだった。とても良い映画ファンとは言えない……私の話をダラダラ綴ってしまって申し訳ない。だからこそ、本書の真魚八重子氏の映画に対する姿勢には唸らされるのである。

本書は『マッドマックス 怒りのデス・ロード』『ゼロ・グラビティ』『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』『フィルス』といった映画、スピルバーグトム・クルーズ作品から日本映画の佳品に至るまでを縦横無尽に語り尽くした書物である。タイトルで大見得を切るその向こう見ずというか攻撃的な姿勢は本書の文章にも現れている。「毒舌」「辛口」というわけではない。なんらかの作品を殊更に貶め、それと引き合いに出してなにかを褒めるというようなことはされない。映画に対しては(本書の成瀬巳喜男に対する姿勢のように)批判する場合であっても何処までもフェアネスを貫く。語弊があるが、その不器用なまでの真っ直ぐさが胸を打つのである。

氏は基本的にショットの美しさも重視するが、それよりもスジの構成にこだわっている印象を抱く。そのあたりは評価が割れるだろうが、ともあれ良くも悪くも分かりやすい批評であることは間違いない。スジ/構造は具体的にこれといって作品から分かりやすく抽出し分析出来る。ショットの美しさはそれを言葉に置き換えないと行けないので無理が生じるが(もちろん真魚氏も、見逃してはならないショットの美しさを褒めていないわけではないので念の為に)、スジなら文芸批評や演劇批評的に論じることが出来る……こんな風に書いてしまうと、真魚氏はあるいは立腹されるかもしれない。「私のやっていることを素人芸だと呼ぶのか」と。

違うのだ。誰でもやれそうなことを、しかし誰でもやれない次元でやってのけていることを指摘したいのだ。氏は自分自身の立場が敢えて「女性」であることにこだわり、そこから『マッドマックス 怒りのデス・ロード』という触れば危険な映画に命知らずの前のめりな姿勢で切り込んで行く。スピルバーグの映画の歪さやトム・クルーズの魅力に、ミーハーにならずに客観的に分析してみせる。町山智浩氏がやっているようなこと、宇多丸氏がやっているようなことを別の形でやっている……と書けば過褒だろうか。そのお二方ほど良くも悪くも芸はないが、不器用ながら生真面目で愛がありなおかつ映画そのものに耽溺していることは本書から痛いほど伝わって来る。

「映画そのものに耽溺している」……と書けば大袈裟に聞こえるだろうか。だが、私はこれは大袈裟な表現ではないと思う。これが氏にとっての貶し言葉にならないように――そう響かないように――祈りながら書くのだが、氏にとって映画は単なる娯楽でも「お勉強」でもトレンドへの追随でもない、延命措置のように思われてならないのだ。絶えず泳いでいないと死んでしまう魚のように……その意味では「映画マニア」ならぬ「映画ジャンキー」なのかもしれない。映画にドラッグのような快楽を求めた記憶のない私は、だからこそ氏のような凛とした(矛盾するが、快楽を追求する姿勢が同時に求道的/ストイックですらあるような)姿勢に惚れ込んでしまうのである。

裏返せば、先程も述べたが本書に「遊び」の姿勢はない。映画と真っ向からガチでぶつかり合う書物なのである。その姿勢が何処までも「不器用」なのだ。難なく掌の中でアカデミックな言葉を弄び披露するような、あるいは心にもないおべんちゃらを述べ立てるような器用さは本書には見当たらない。ショーマンシップに溢れた格闘技を見ているというより、より殺伐とした路上の喧嘩を見ているような気分になるというのか……むろんだから行けない、というわけではない。ただ、その真摯さにつき合うにはそれなりの覚悟が要る。映画的素人を拒むような本ではないので、あとはその真摯さ/痛ましさに何処まで向き合えるか。読者としての資質が問われる一冊だ。

本書で紹介されている映画で私が知っていたものは十本ほどという(もっと少ないかもしれない)情けないコンディションで読んだのだけれど、トム・クルーズへの愛情がたっぷり詰まった箇所はかなり読み応えがあった。異論もないではないが、ヤワな異論を黙らせるほどの情熱が本書にはある。熱さがある。ここまで映画がひとりの人間を動かしてしまうとは……その情熱の賜物が本書である。本書の帯文で「映画見たい!」と橋本愛氏は語っておられるが、私は映画というより映画にここまで憑依された真魚氏に興味を抱いてしまった。それが幸運なことなのか不幸なことなのかは分からない。むろん、観たい映画も増えた。まずは酔っ払った状態で観てしまったために内容をすっかり忘れた『フィルス』から観ようか(失礼!)。

前田敦子『前田敦子の映画手帖』

前田敦子の映画手帖

前田敦子の映画手帖

 

「不思議な本だなあ」。それが本書に対する、率直な感想である。

著者が誰なのかについては書くまでもないだろう。アイドルとして AKB48 のセンターを飾り、同時にそれこそ映画界で「女優」としても活躍して来た「あの」前田敦子氏である。 AKB48 は「卒業」して今は「女優」業をメインに頑張っている。テレビを全くと言っていいほど観ず、アイドルについて興味の全くない私でさえこの程度のことは知っているのだから、前田敦子氏に関しては他の皆さんの方がよっぽど詳しいだろう。そんな前田敦子氏が、帯文によれば「170本超」の「映画」について語ったのが本書である。「私、映画にはまっています。」というのが本書の帯のコピーだが、この本数に偽りはない。相当多忙だろうに……と私なんかは思ってしまうのだけれど、その合間を縫ってこれだけの映画、いや推定するにこの数倍の映画を確実に観ていることは明らかだろう。

私の話で恐縮だが、私的に映画を観るようになってからまだ日が浅い。正確に言えば去年に人に薦められて観た映画(ちなみに曽利文彦『ピンポン』です)が面白かったから映画という広大な荒野を探索してみようと思うようになったのだった。前田敦子氏が映画に「はまっ」たのは私よりも早い。このエッセイ集には 2013 年から『AERA』誌に連載されたコラムが基本的に収められているのだけれど、もちろんそれよりも早い段階から映画に「はまってい」たのだ。

そのせいかやはり私よりも数多くの映画を観ていることが明らかで、読んでいて恥ずかしく思わされた。私の観てない映画ばかり挙げられている。小津安二郎ゴダールヒッチコックといった有名どころから、本書で対談の載っているダーレン・アロノフスキー山下敦弘氏の作品に至るまで、その幅は広い。『ロード・オブ・ザ・リング』や『ハリー・ポッター』シリーズといったファンタジーや SF から恋愛映画まで、新作から古典まで前田氏が幅広くフォローしていることに唸らされる。前田敦子氏が主演した『もらとりあむタマ子』などの作品を手掛けてファンにはお馴染みの映画監督の山下敦弘氏をして、「こんなに映画を見てる女優はいない」と言わしめた(帯文にそう書かれている)ほどである。これは誇張ではないだろう。

だが、「不思議な本だなあ」と思ったのはもちろんその映画の知識の豊富さ(多い時は「1日5本」観たんだとか!)に圧倒されたからでは、必ずしもない。いや、圧倒されたのだけれどそこに原因はない。ここからが難しい話になって来るのだけれど、前田敦子氏の愛する映画について語る筆致には、「私はこれだけ映画を知っている」という「自慢」めいた嫌味さや下品さというものがない。むしろ謙虚だと言える。現存する監督や俳優に関して、それが日本人であろうとなかろうと「さん」づけで呼んでいることがその傍証となるだろう。「ジャン=リュック・ゴダールさん」「アンナ・カリーナさん」……こういう調子で非常に柔らかくエッセイは綴られている。だからなのだろう。「こんな作品を知らなかったのか!」というような、「負け」「劣等感」とでも呼ぶべきネガティヴな感情をさほど感じないのだ。せいぜい「もったいないことをしていたな……」と思う程度である。

本書で挙げられている、私が観ていた数少ない映画であるスタンリー・キューブリック『シャイニング』について、前田敦子氏はこう書く。

(略)行き過ぎた異様さが表現されている、と言えばいいのでしょうか。単なるホラー作品ではないですね。全体的に、怖さよりも不気味さに圧倒される作品でした。

 終わり方も、いろいろな解釈が可能なんです。一緒に見た友だちとも、「こういうこと?」とか感想を言い合う感じ。でもそういうふうに、もやっとしたまま終わる映画、私はけっこう好きです。(p.59)

柔らかさの片鱗が伝わっただろうか。スタンリー・キューブリックについて、そのカメラワークや演出の妙といったテクニカルな部分を語るのでは必ずしもない。そんな専門的なことに前田氏の目は向かわない。それよりももっと、自分が映画を観終えた後に抱いた皮膚感覚や直感といったものに訴え掛けてくるものを、こういう風にごく「自然体」の筆致で表現してみせるのだ。そしてそれが、妙に読んでいてクセになるのである。目新しいことは言ってないな、あっさりし過ぎてるんじゃないかな……良く言えば「自然体」で「淡白」、悪く言えば「薄味」と言っていいだろうこのエッセイ集は、しかしこの私のような擦れっ枯らしの野郎でさえ再読に誘うなにかが確実に存在する。実際に、それほど読むのに骨が折れる本ではないので「再読」の段階に入っている。これは(つまり読んだ「直後」に「再読」してしまうのは)私にしては極めて珍しいことなので、「不思議な本だなあ」と思わされたのだった。言いたいことが伝わっただろうか。

「女優」としての前田敦子氏は、上述した私の映画的無知故に殆どと言っていいほど知らない。先にも挙げた『もらとりあむタマ子』とあとは中田秀夫監督『クロユリ団地』を観た程度なのだけれど、この柔らかさの秘訣はどこにあるのだろうか。まさに「不思議」なのである。基本的にこの本は褒めてばかりなのだけれど、繰り返すが前田氏の映画に対する腰の低い姿勢と、「こんなに映画を知ってるって凄いでしょ」という自己主張や嫌味の全くない柔らかい筆致故に語られている映画を実際に観たくさせるだけの力を備えている。彼女はもしかすると、良い映画の「伝道師」になれるのではないだろうか。例えば、ここでこんな大御所の名前を挙げると大袈裟でそれこそ褒め過ぎに聞こえるかもしれないが、あるいは故・淀川長治氏のような……そんな可能性さえ感じさせるのだ。

少なくとも、私は二本しか観たことがないのでまだ評価には早いが「女優」としての前田敦子氏に関しては私は、良くも悪くも「頑張りが見える」という印象を抱いているのだった。特に和製ホラーである『クロユリ団地』に関して切にそう思った。映画を観るにあたっては演技に関してはそれほど頓着しない私のような観衆でさえ、それ故にそっちの「頑張り」の方に目が行ってしまいハラハラしてしまったという(映画を観ていて俳優を「頑張りが見える」なんてまず思わないですよね?)、私にとってはそんな「女優」の前田敦子氏なのだけれど、これはかなり失礼な言い方になるがあるいは「女優」としてよりも「伝道師」としての資質の方が優れているのでは……と思わせられるのだ。

だがこれ以上「伝道師」としての前田敦子氏を分析するには、残念だがここまででかなり字数を費やしてしまったしここから先のことは語れそうにないのだった。だから、実際にカメラの前に立つ経験を繰り返した「女優」としての持ち味を活かしながら、豊富な知識を舌足らずながら氏なりに丁寧に披露して評価を下してみせた本書について肉迫出来たという手応えは全くない。やはり、繰り返しになるけれど「不思議な本だなあ」という以上の言葉が出て来ない。

ただひとつだけ言えることは、恐らくこの本は売れるだろうし続編も刊行されるだろう。そして、続編が出れば私は必ず買って読む、と断言する。前田氏の筆致にはそんな風にこちらを妙に中毒にさせる、変な言い方になるがある意味では「困った」ところがある。映画の「続編」は大体期待外れに終わるものと相場が決まっているのだけれど、前田氏の『前田敦子の映画手帖』に関しては、読み終えた傍から「続編」を期待してしまう。もっと映画について語って欲しい……そう思ってしまう。こんなこと、繰り返すが「擦れっ枯らし」の読者である私に関してはそうあることではない。

……やはり、ここまでの拙文を読み返してみて思ったが、なんの魅力も語れていない気がする。こればかりは書店の店頭で手に取って読んでみて欲しい、それしかない、と切に思う。コンパクトで、そして紹介されている DVD に関してはジャケットを敢えて手描きのイラストで紹介しているという細かいところにも凝ったこの本の装丁も含めて、実に興味深い一冊だ。「チャーミング」……とはまさにこのことではないか、と。人を映画館やレンタルショップに行かせるだけの魅力は充分に備わっていると考える。決して片手間の仕事なんかではあり得ない、良質の映画に関するエッセイ集にしてガイドブックである……そう思いながら私はまだ、この本について充分に語り尽くせていないような「不思議」さと格闘している始末である。

ジャン=リュック・ゴダール『女は女である』

女は女である HDリマスター版 [DVD]

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ここ最近、本を読んでいない。ではなにをやっているかというと、ひたすら映画を観ているのだった。ジャン=リュック・ゴダールの映画だ。昔『気狂いピエロ』を、その世評の高さからおっかなびっくり観てみて見事に玉砕した身としては、今ゴダールの世界が楽しめるのが不思議で仕方がない。年を食ったからか、酒を止めたからか、映画を沢山観たからか。そのどれでもないのか。分からないが、まあ、そういう人生もあっても良いのだろうと思う。誰に気兼ねもせずゴダールを楽しめる。こんな幸せなことはないと思う。

女と男のいる舗道』を観て、ゴダールアンナ・カリーナという女優に惚れ込んでいるなと思った。これは四方田犬彦ゴダールと女たち』という本を読んでなんとなく大まかに掴めたことではあったのだけれど、ゴダールが撮るとアンナという女優は、セクシーというのでもなくコケティッシュというのとも違う、微妙な美しさを放つように思う。『前田敦子の映画手帖』を読んだ時に前田敦子ゴダールの作品の中で取り分け好きなものとして『女は女である』を挙げていたのが記憶にあったので、私もこの映画を観てみた。実に面白い作品だと思った。

ゴダールを語れるほど沢山映画を観ていない。もっと掘り下げたい名作は山ほどある。そんな私がこの映画を語るなんて不遜も良いところなのだけれど、それでも語るならこの映画は「ポストモダン」しているなと思った。それは文学における過激な実験/エクスペリエンスを重ねた作品と類似したものを感じた、ということを意味する。高橋源一郎の作品、もっと言えば『さようなら、ギャングたち』が挙げられるのではないか。この映画の痴話喧嘩はそういう類のコミカルさと哀愁を備えているように思う。だが、まずはスジの話だ。

エミールという男が居て、アンジェラという女が居る。エミールは書店で働いている(らしい?)。アンジェラはストリッパーだ(といっても裸身は晒さない)。彼らの痴話喧嘩を描いたのがこの映画……たったそれだけの話だ。それが何故こんなにも面白いのか。その魅力をどう語ったら良いか分からない。思いつくところから挙げてみれば、まずはアンナが着ている/纏っている服の赤色が見事であることが挙げられよう。ゴダールの色彩に関するセンスの確かさは『気狂いピエロ』でも分かっていたつもりだったが、『女は女である』でもずば抜けてセンスが良いことが分かり唸らされてしまった。『女と男のいる舗道』のアンナも赤い服を着ていたのだろうか? モノクロなので分からなかったのだけれど……。

この映画は喜劇である、と大真面目に語られる。もちろん、あのゴダールの言うことだ。鵜呑みにして掛かってはならないだろう。だが、この映画のコミカルさは確かに喜劇なのだ。子作りに励もうと奮闘するアンジェラと、それを(何故か)すげなく断るエミール。彼らが自分たちが如何に相手を愛している/していないかを、例えば本のタイトルを引用する形で喧嘩で表すあたり、これはもう『さようなら、ギャングたち』の世界ではないか! 高橋源一郎が『女は女である』を受容していたのかどうなのか、私には分からないが見事な符合だと思われた。

「第四の壁」、という言葉がある。カメラ目線でこちら側に俳優が語り掛けることを意味する。普通の映画ではそんな「第四の壁」を破るようなことはやらない。観ている観客に「自分たちは観客なのだ」と意識させることになるからだ。野暮ったい印象を与えかねない。だが、この映画では平気でその「第四の壁」を破る試みをする。こちらに目配せをしてアンナとジャン=ポール・ベルモンド、あるいはジャン=クロード・ブリアリは演技を行う。その目配せもチャーミングなのだ。映画館で観たらさぞかし感動的な光景だっただろう。そして当時はこれが斬新であり、今でもなお観るに耐え得る強度を備えている。感服せずには居られない。

とまあ取り留めもなく話は続いてしまったが、個人的には改めてゴダールが「赤」と「青」という色の――そしてもっと言えば、全ての色彩に備わっている――魅力を知悉した人物であることが分かって、感服した次第である。『気狂いピエロ』で知られているゴダールだが、個人的には『女は女である』の方を推したい。ただ、実験的でぶっ飛んでいるその飛び方の過激さ故に、人を選ぶ映画なのかもしれない。そこが痛し痒しといったところ。映画好きならこの映画に選ばれてみるのも悪くないのではないか。そんなことを考えてしまった。

ジャン=リュック・ゴダール。四十代でやっとその強度を把握出来るようになって、これは是非『イメージの本』もチェックしたいと思ったところ。そして、改めて映画が好きで良かったと思うのだ。これから先、この作品をもっと違った角度から語れるようになりたい。