アスガー・ファルハディ『セールスマン』

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アスガー・ファルハディという監督の映画は、『彼女が消えた浜辺』『別離』『ある過去の行方』を観て来た(この順番ではなかったが)。いずれも唸らされる秀作だと思ったし、また問題を孕んでいる作品たちだとも思ったのだが、それはこの『セールスマン』でも変わらない。ファルハディらしさに満ちた、なかなか取り扱いが難しい作品だな、と思ってしまったのだ。

スジは単純だ。学校で教鞭を執る一方役者を演じる男と、その妻が居る(妻も夫と同じ舞台の上に立つ存在である)。彼らは自分たちが住むマンションが罅割れで住めなくなってしまったので、新たな住居を探す。そこは前の住居者の私物がそのまま残っている状態だったが、その住居者の意向を無視して彼らは引っ越す。ある日、妻はシャワーを浴びていたのだが、夫だと思い確かめずにドアを開けると……その後空白の時間が現れ、妻は床に倒れる。一体なにがあったのかを探る、そんなストーリーである。

空白の時間。つまり、この映画では肝腎な事件の部分を映さない。ただ、夜中に妻がドアを開けた際にふわっとドアが開くその光景を見せるだけだ。この手つきは例えば『別離』で肝腎の出来事が描かれなかったこと(むろん、意図的なものだ)にも通じて、ファルハディらしいストーリーテリングの妙を感じさせる。悪く言えば同じ手法に淫しているとも言えるが、私はこの映画でドアが開くこの場面に戦慄を感じてしまった。撮り方に置いて『別離』よりも巧くなっている(もしくはケレン味が増している)と思ったのだ。

イランの市民社会がこの映画では丁寧に描かれる。演劇は検閲を通らないと上映出来ないことなどがさり気なく記される。映画がどの時代を舞台としたものか分からないのだが(だが、スマホを持っていることを考えるとそう昔でもあるまい)、『テヘランでロリータを読む』といった作品でしか知らなかったイランの社会の生々しさが際立って来て、例えば彼らが食べるパスタに愛おしさを感じる。社会派の一面がさり気なく見える作品ではないかと思う。

観ながら、これは――過褒、ないしは頓珍漢に聞こえることを承知の上で書くが――ドストエフスキーの世界ではないかと思ってしまった。ファルハディは一貫して失踪やレイプ事件といった「罪」をその中心に据える。そして、それに対して登場人物たちがどう「罰」を施し、またその「罰」を受け留めるのかを描いていくのである。『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』がミステリとして読んでも面白いように(と、書いてふと思うのだがこの二作も肝腎な事件は描写が為されなかったのではないか?)、ファルハディの映画もミステリとして観ても面白い。

同じ素材を、例えばミヒャエル・ハネケといった名匠ならもっと通俗的な意味で――良い意味でも悪い意味でも――「面白く」撮ったのではないかとも思う。この映画は(他のファルハディの映画にしてもそうだし、あるいはこう感じるのは例によって私だけかもしれないのだが)贅肉が多いのだ。削ろうと思えば削れる場面もないではない。だが、その削れる場面にこそこの映画の旨味があるとも感じられるのでもどかしい。そのあたりもドストエフスキーの小説を彷彿とさせる。

例えば、疲れ果てて眠ってしまっている主人公の男の授業でその眠り込んでいる姿を生徒たちがふざけてスマホで撮影する場面がある。だが、これは男によって消去される。このあたり、意味合いとしてはそれほど重要にスジに絡んで来ない。だが、この場面をどう見るかでこの映画の面白さも変わって来る。個人的にはこの箇所は「知らないはずのことを知っていることの怖さ」、ないしは男の推理力の高さを明示したものとして見て取った。男は正義感に駆られて、持ち前のそういった推理力で事件を捜査する。

その一方で、妻の立場は微妙だ。裸身を見られる(これは、イスラム社会においてはかなりのプレッシャーではないか?)という体験を被ってしまい、言わばトラウマになってしまった出来事をほじくり返されるわけだから、極端に言えばセカンドレイプにも似たものがあるだろう。妻のそういう心の病を無視して夫は天誅を下すべく奔走し、そこからまさにこの映画でところどころに現れた窓ガラスや壁よろしく「罅割れ」が始まるのだ。

彼らが演じる『セールスマンの死』という戯曲を、私は知らない。だからこの戯曲がこの映画にどう絡んで来るのかまでは分析する術を持たない。だが、このふたりが『セールスマンの死』を演じることを通して「死」を体験し、そこから逆算する形で真の愛とはなにかを体験することは見過ごせない。重要なのはその死も愛も「演じる」ものであることだ。つまり、リアルな意味では体感されないのだ。

「演じる」ことによってのみ体得可能なもの……そこに、さり気なく監督は「愛」を置いてみせる。彼らは芝居を通じて「愛」を「演じる」。彼らが語る「愛」の言葉は語れば語るほど、その思いとは裏腹に虚しいものとして響く。まさに三文芝居のような台詞回しから(むろん、この映画の脚本にケチをつけたいわけではない。念のために)浮かび上がるのは干からびていき段々枯れ落ちる「愛」の姿だ。

真犯人は一応明らかになる。だが、夫婦は元の鞘には納まらない。彼らはこれからもまた、「愛」を「演じる」ことによってのみ「愛」し合う虚しい日々を生きるのだろう、と思わせるのだ。そう鑑賞してみると、なかなか強かな映画だ。