河瀨直美『あん』

ドリアン助川による原作は未読なのでなんとも言い難いのだけれど、『あん』とはまたヒネりのない、センスの悪いタイトルだなと先入観を抱いてしまっていた。だからこの映画に対してもポジティヴな印象を抱いていなかったのだけれど、観終えたあと唸らされてしまった。この『あん』という言葉こそ、この映画に最も相応しいタイトルだからだ。


スジは簡単。桜が満開の頃、ひとりで店を切り盛りするどら焼き屋の店主のところに老婆がやって来る。彼女は、その店で働かせて欲しいと申し出る。難色を示す店主だが、彼女が店主が業務用の「あん」を作っていることを知り、手作りの「あん」を持って来る。その「あん」が美味しかったことから店主は彼女と一緒に働くことになる。小豆の仕込みから始まって彼らは熱心に働き、店は大繁盛する。だが、老婆がハンセン病患者であることが噂となり、店は静まる。老婆は去り、その後常連の女子中学生が現れる。彼女は家出して来たのだ、と語る……これがプロットである。

ハンセン病を啓蒙するような内容なのかな、と思っていたのだけれど実態はそんな映画ではなかった。むろんハンセン病について全く触れられないというわけではない。だが、正しい知識を得ようという「お勉強」の映画ではない。説教臭さはない。むしろこの映画はもっと複雑なものを孕んでいる。どういうことか。先に結論を言ってしまえば、この映画は閉じ込められた存在に関する映画なのだ。確認していこう。

この映画では、主要な人物は全て閉じ込められている。ネタを割っていくと、例えば店主は抱え切れない借金を背負っており、かつ過去に傷害事件を起こしたことがある。だからオーナーの言いなりになるしかない。閉塞感を抱いている。老婆はハンセン病に罹っており、基本的には施設に閉じ込められるしかない(と書いて、何故どら焼き屋を手伝いに出られたのかとここでふと不思議に思うのだが……)。女子中学生はカナリアの啼く声が煩いから、家庭の事情が巧く行っていないからという理由で家でするしかない。むろん宛てなどないに決まっている。女子中学生は生徒、つまり学校に閉じ込められた存在でもある。

彼女が家出する際に持ち出すのが他のどんな荷物でもない、カナリアを閉じ込めた鳥籠であることはその意味で象徴的だ。カナリアもまた閉じ込められた存在だからだ。これが犬や猫であればこの映画は破綻していただろう。カナリアこそが――若干あざといが――彼らの運命の象徴なのだ。老婆が女子中学生たちに対して、学校からとびだせ、遊べと語るところは実に示唆的だ。店に閉じ込められた店主、施設に閉じ込められた老婆、学校や家庭に閉じ込められた女子中学生。三者三様の苦悩を彼らは生きていると言えるだろう。

閉じ込められた存在が出来ることは従って、差し当たっては「聞く」ことである。老婆が水に浸かった小豆の声に耳を済ませ、カナリアの啼き声に耳を済ませるように。あるいは、「想像する」ことでもある。桜並木を見て誰が植えたのだろうかと想像する。「想像する」こと、「聞く」こと……この映画でネット社会であるにも関わらずネットが重要な存在として登場しないのは示唆的である。人は噂を耳にする。グーグルを使ってネットで「見る」だけで簡単に分かりそうなハンセン病の正しい知識を、聞き取りだけで問題視するのだ。知識を調べたりせず、想像と伝聞で噂を広めていく。

河瀨直美監督の映画は不勉強にして『光』程度しか観ていないのだけれど、『光』を観た限りでは登場人物たちがなにも語ろうとしない、台詞が極端に絞られた映画という印象を受けた。作風は言うなればダルデンヌ兄弟の映画にも似ている、と。それはこの映画でも変わりはない。だから少々不親切ではあるのだが、肝腎なところで肝腎な台詞を語らせることには成功している、と感じられ好ましく思われた。『光』が登場人物たちがあまりにも謎な行動を取るので、一体なにが起こっているのかさっぱり分からず苦い思いをして敬遠していたのだけれど、彼女の作品は要チェックと思われた。

そして、この映画において最も重要な「閉じ込められた存在」とは、そう、「あん」である。どら焼きはもちろん「あん」を内包しないと存在しない。「あん」のないどら焼きなどあり得ない。だが、「あん」が表舞台に堂々とその姿を表わすことはない。「あん」は皮を被って隠れなければならない存在なのだ。それをタイトルで示した時点で、この映画を更に好ましく思った。だが、だからこそこの映画に最後の音楽は要らなかったと思うのだ。邦画の悪しき風潮が足を引っ張っており、そこが惜しく思われた。

樹木希林を追悼する意味で遅れ馳せながら観たのだけれど、台詞の発音は不明瞭で聞き取りづらい。だが、言葉を超えた演技の迫力――それは上述したように「聞く」と「想像する」というふたつの重要な要素を退け、まず「見ろ」「確認しろ」と語ろうとしているかのような――は確かに感じられた。その意味では北野武の演技にも似ている。この映画、なかなか侮れない。