大森立嗣『光』

光 [DVD]

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……陳腐な言い方になるが、かの東日本大震災がクリエイターに投げ掛けた問いは大きかったと言えるだろう。そして、どの重要なクリエイターも「震災」と向き合わねばならなくなってしまった。むろん、「震災」などなかったかのように作品を作るクリエイターも居るし、それが悪いわけではなんらない。むしろ「震災」を扱わないクリエイターを糾弾するのはそれはそれでファシズムであると思う。ただ、鋭敏な感性/感受性を兼ね備えているクリエイターの作品は、必ずと言っていいほど「震災」の影がチラついていると思われる。

ひとつずつ挙げて分析していくとキリがないし、この文章の本題に入ることが出来なくなってしまうので止めるが『君の名は。』や『この世界の片隅に』などはまさに「震災」と向き合った末に生まれた産物であると思われる。なるほどどちらも「震災」に直接的に言及していないが『君の名は。』では「惑星の落下」が、そして『この世界の片隅に』では「戦争」が「震災」と読み替え可能であることがすぐに分かるはずだ。両者が今なお私たちに感動を呼び起こすのは従って偶然でもなんでもないのである。

『光』を観た。三浦しをんによる原作は未読の状態で観たのだけれど、結論から言えばあまり楽しめなかった。ただ、この映画はこれから述べる通りやはり「震災」と――言い換えれば「絶望」と――愚直に向き合った末の産物であり、その意味でなかなか手強い作品であるように感じられた。幼馴染の三人がいる。少年と少女、そしてより小さな男の子。少年と少女は中学生なのだろうか、覚えたてのセックスに耽っており、男の子は父親の暴力/虐待に苦しんでいる。彼らは離島に住んでいるのだが、ある日起きた「震災」に見舞われる。その二十五年後が描かれる。

ジェフ・ミルズが音楽を手掛けているということから、この映画への興味が湧いた。ジェフ・ミルズの硬質なミニマル・テクノを私は愛する人間である。冒頭、離島の大自然の中に彼の硬い音楽がインサートされる。ミスマッチな印象を受ける。大自然のオーガニックな世界の豊満さと、ジェフ・ミルズの都会的なリズムと接点はないような……だが、観ていくにつれてそれが計算の内であることが分かって来る。テクノのリズムはこの映画の登場人物を貫く情動、つまりパッションを支えているのだ。

殺人が起こる。一度目は少女がセックスしていた相手を少年が殺すという形で行われる。二度目は詳しくは書くまい。人を殺すことは言うまでもなく論理の範疇を超えた事柄である。人を殺して良い理由を「論理」の中に求めることは出来ないからである(もし論証されているのだとしたら、説明して欲しい)。だからこそ倫理学や哲学は「何故人を殺してはいけないのか」を延々と論じ続け、不可解な問いを問い続けて答えをアップデートしていくことになる。

逆の言い方をすれば、人を殺すことは動機など要らない。情動に突き動かされるがままに行われる。それが殺人である。「カッとなって」やった……この映画での殺人もそういう「キレた」が故のものとして語られることになる。それは情熱的な行為だ。その情熱的な行為を、よりダイナミックに盛り立てるのが音楽というわけである。その試みは、少なくとも私は成功しているように考えられた。

「震災」は――そしてそれがもたらした「絶望」は――起こり、そして終わる。「震災」後も生き残った人は粛々と生き続ける。だが、「震災」をなかったことにすることは出来まい。二十五年前とは言え(それこそ、論理的に考えればとっくの昔に「時効」になっているだろうが)殺人に手を染めた記憶は、流行りの言葉で言えば「黒歴史」としてついて回る。少年は市役所に勤める公務員になり、少女は女優となる。男の子は恐らくは日雇いと思われる労働者となって、それぞれの人生を生きることになる。

ここのあたり、なかなか難しいと思ったのは二十五年という時間のギャップをリアリティを以て感じにくい造りになっていたからだ。架空の時間軸で語られた物語、ということは分かる。もっと分かりやすい言い方をすれば、直接的にはあの「東日本大震災」に触れられた「震災」であるとはこの物語は語っていない。いつ、何処で起こったのか分からない地震について語られている。

それにしても二十五年である。テクノロジーが進化した果て、あるいは逆にレトロスペクティヴな懐かしさを感じさせるようなアイテムは出て来ない。だから当然のこととして、私たちはなんだか空疎な日常を見させられているような気持ちになってしまうのである。作品の日常が私たちのリアリティと繋がるものなのかどうなのか、それが棚上げされたまま語られるのだ。

その棚上げされた状態、つまり作品が私たちの日常とシンクロしない欠点を補って余りあるのが俳優たちの熱演である。どの俳優たちも殺人という人知を超えた行動について語り、あるいは動く。それは理解出来るのだけれど、鑑賞者であるこの私という人間がそういう情動をそんなに理解出来ない(しない?)せいかそれほど前のめりになって観ることが出来なかった。不幸な出会い、というべきものだろう。