ラース・フォン・トリアー『メランコリア』

メランコリア [DVD]

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ラース・フォン・トリアーの映画には――全てを観たわけではないが――ある種のいけ好かなさを感じていた。最初に観たのがご多分に漏れず『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だったことが尾を引いているのかもしれない。まだまだ映画に関してトーシロだった頃に『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観たのだけれど、あとにも先にも撮った人物の人間性を疑うような憤り/怒りを感じたのはあの体験だけだったと言っても良い。ミヒャエル・ハネケファニーゲーム』でさえあんな憤り/怒りを感じさせるものではなかった。

絶対に許さない……そんな気持ちでラース・フォン・トリアーの名を記憶したことを思い出す。その後『奇跡の海』『アンチクライスト』といった作品を観て補正されたが、それでも彼の作品は苦手だ。優れた作品を撮っていることは認めるが、どうにも気に入らないのだ。その理由がこの映画を観て分かった気がした。

スジは単純明快。とある広告代理店のキャッチコピー担当の女性が結婚する。その結婚式でのいざこざが第一部では描かれる。女性は相当心を病んでおり、結婚式そっちのけで他の男とセックスしたり身勝手な行動に走る。そんな彼女に翻弄される家族の姿もまた、手ブレが生々しいカメラで記される。劇中で、地球はメランコリアと名づけられた惑星と激突する運命にあることが明かされる。第二部ではそんなメランコリアの接近を前に動揺する主人公とその家族の姿が描かれる。ある種のサイエンス・フィクションでありディストピア……と言うとピント外れかもしれないが、ともあれそういう話だ。

さて、いけ好かなさと書いた。その理由は、ひとえにラース・フォン・トリアーが神になりたがっているからなのではないかと思ったのだった。別の言い方をすれば、彼は神だと思っているのではないか、と。彼が描く主人公たちの姿は輪郭だけで、まるで生々しいリアリティを欠いている。強いて言えば病んでいる姿は確かにリアルで、居たら困るトラブルメーカー(あるいは、嫌な言い方をすれば「メンヘラ」)を描くことには成功していると言える。でも、それ以外の生々しさは皆無なのだ。大企業に勤めているという設定も、家族の結婚への祝福や困惑も非常にあっさりと描かれる。

これまた別の言い方をすれば、彼は自分が造り出した世界――お望みなら「セカイ」と言い換えても良いだろう――を描くことに腐心しているように感じられる。だからこの映画の主役はある意味では不在なのだ。いや、メランコリアという小惑星自体が主人公なのだと言い換えても良いだろう。小惑星メランコリアを前にした人物たちの動きは非常に表面的に逃げたり喜んだりという単純な感情の図式に呑み込まれてしまい、ハリウッド映画に観られるような全世界がパニックに陥るという描写は全くと言っていいほどない。世界/セカイと隔離された場所で、最終的には三人の人物が静かに死を受け容れる。それがこの映画だ。

だから、この映画は(元々鬱傾向があるらしい)ラース・フォン・トリアーが撮った箱庭療法的な映画と観るのが相応しいのかもしれない。彼はひとつの世界/セカイを造り出した。その世界/セカイの中で、彼はハンディカメラを手にし登場人物を撮る。そう、この映画のカメラの視点はそのままラース・フォン・トリアー自身の視点であり、あるいは神の視点なのだ。そう考えてみるとこの映画は神が実際に目撃した世界/セカイの記録であり、さながら『黙示録』『ヨブ記』にも似た趣を感じさせる。だから、ヒューマン・タッチな映画とは真逆に存在している。

ラース・フォン・トリアーの映画もさほど観ていないので確たることは言えないが、私が『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に対して抱いてしまった憎悪の原因も、そして彼が一貫して撮る映画に対するいけ好かなさの原因もそう考えて行くと簡単に分かる。誰だって、自分が神であることを僭称する凡人の映画――いや、これは皮肉を込めれば彼は「天才」かもしれないが――なんていけ好かなさや憎悪しかリアクションとして抱かないだろう。その意味で、彼は良かれ悪しかれ大した度胸の監督だと思う。彼は今日もせっせと黙示録を作り続けているのだ。そのセラピーの所産を私たちは見せられている。下品な言い方をすれば、オナニーに突き合わされているわけだ。

ラース・フォン・トリアー……彼が己の欲動に突き動かされるがままに、病んだ自分を曝け出して一流の映画に仕立て上げるその手管には唸らされる。その意味で『メランコリア』もまた大した凄い作品だと思った。だが同時に、その自分勝手なカタルシスの体得に突き合わされた身としては辟易させられたことも確かだった。観衆を引きずり込むあざといキャッチーさが必要なところもあるのではないか、と思ったのだ。だからこそのワーグナーなどのクラシカル・ミュージックの多用であったり、あるいは映像美の凄さで引きずり込もうとする戦略だったりしたのだろうけれど。