フェデリコ・フェリーニ『フェリーニのアマルコルド』

フェデリコ・フェリーニの映画も、不勉強が祟ってしまって『道』程度しか観ていない。そんな有り様で本作に挑んだのだが、果たしてこの映画は非常に面白いと思われた。語弊がある言い方をするが、例えばこの映画を観ていて思い出したのは是枝裕和海街diary』のような映画だった。

「アマルコルド」をグーグルで調べたのだけれど、「私は思い出す」というような意味の言葉であるらしい。そう考えてみればこの映画はフェリーニの自伝的な映画とも取れるのだが、私はあいにくボンクラなのでそんなフェリーニの自伝的要素には特に関心を惹かれなかった。

舞台はイタリアのとある港町。綿花の綿が飛び交う春から物語は始まり、一年を経て(つまり春夏秋冬を経て)春で閉じられる。その一年を、季節の移ろいを甘美に映し出している構造に私は『海街diary』との類似を感じたのだけれど、それについて触れるのは急ぎ過ぎというものだろう。ストーリーを整理しよう。本作は、イタリア史の汚点であるファシズム体制が跋扈していた時期/時代のイタリアの物語である。政治が揺れ動き、しかし町民たちはしたたかにそんな体制を受け容れてしぶとく生き抜いていた。この映画は非常に特殊な時代の日常を、『この世界の片隅に』ばりに描いている。

観ていて思ったのは、この映画がなによりも女性たちの映画であるということだった。それは取りも直さずこれを観た私自身が男であることからも来るのかもしれない。女性たちの描かれ方が何処かぎこちなくエッチなのだ。エロティック、というのとは違う。倒錯的・官能的というのともまた違う。女性たちはこちらの原始的欲望を満たしてくれる母性を湛えた存在として私たちの目の前に立ち現れ、そして甘く褒めたり叱ったりしてくれる。それは具体的には主人公の少年の母親やタバコ屋の店主、愛しの女性や女教師といった形で立ち現れることになる。

主人公の少年は如何にも思春期の少年らしく悶々とした性的悩みを抱えており、それが例えばそのままカメラ越しに女性たちのお尻を舐め回すようなカメラワークとなって伝わって来る。フェリーニにとって少年とカメラ目線とは等価とでも言わんばかりだ。カメラワークが主観となって世界を映す。この映画を彩る何処か甘いエッチな感覚はそういうカメラ目線と主人公の性欲から帰結として現れて来ている。観ていてなんともウブな映画だなと苦笑いしてしまった。フェリーニのフィルモグラフィ/バイオグラフィには興味はないが、フェリーニにとって何処まで現実だったのか/じゃなかったのか考えてみるのも興味深い。

彼らをめぐる物語はこちらを退屈させることなく緩やかに進行していく。いや、矛盾する言い方をすれば甘美な退屈さを感じさせながら(例えばギュスターヴ・フローベールの小説のように?)進行していく。ファシズムムッソリーニを描き、政治に生々しくコミットしつつも戦時下の悲惨な匂いがまるで感じられないのは先に述べた通りだ。それに加えて、フェリーニは死をも盛り込む。この映画では――ネタを割ってしまうが――主人公の母親が死ぬ。その死はしかし決してダイナミックな悲劇として、悲惨なものとして現れない。逆だ。日常に根差した死、従って(炎上覚悟で言えば)賛美されるべき大往生として現れるのだ。例えば黒澤明『夢』のラスト・シーンの葬儀のように。

この死の描き方の見事さに、私は呆気に取られてしまった。私自身自分自身の死について考えることが多々あり、例えば親鸞が説いたとされる生死合一についてどう捉えれば良いのか考えあぐねていた時にこの映画をポンと提示されたので、うろたえてしまった。死は悲劇でもなければ事件でもない。日常の一コマなのだ……その境地を描いて生きることの逞しさを炙り出しているところにフェリーニの凄味を感じてしまったのだ。流石はイタリアを代表する巨匠といったところか。遅蒔きながら観て、ディープな感動を喚起させられた。

そして、その死生観の凄味においても私は『海街diary』を連想させられてしまったのである。『海街diary』に関しては記憶で語るしかないのだが、ひとりの重要な人物の死がなんら悲惨なものとして綴られず、むしろ大団円としてピースフルに語られたことを思い出してしまったのだ。黒澤と是枝が『フェリーニのアマルコルド』を意識していたかどうか私には分からないが、ある境地に達した人物だけが描ける凄味と言っても過褒にはなるまい。私自身早速『海街diary』を観直してみなくてはと思ってしまった。観られれば良いのだが……。

恥を忍んで言えば、巨匠の撮った作品を私は敬遠している。例えばフランク・キャプラなんて、全然観たいとも思っていない。それはあらかじめ評価の決まった作品に触れることで私の感受性が試されることが怖いからだ。だが、この世界に触れてしまった今『甘い生活』を観る以外にどんな選択肢が残されているのだろうか。嬉しい悩みが増えてしまった。