ラース・フォン・トリアー『イディオッツ』

イディオッツ [DVD]

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私自身の話から始めたい。2007年に、女友達の言葉が切っ掛けで自分が発達障害者であること(当時はアスペルガー症候群と呼ばれていた)を疑い、心理テストを受けて実際にそうであることを知った。そして今がある。福祉のお世話になりながらグループホームで暮らしている。

そういうわけで、私は広く言えば障害者である。だから、『イディオッツ』を観ていて私はなんだかいたたまれない気持ちになってしまった。健全な感性を持つ者なら誰もが嫌な顔をするだろうこの映画が、しかし愚作と切って捨てられない生々しさを備えていると受け取れたこともまた事実だからである。

手ブレも生々しいカメラワークの――ラース・フォン・トリアー作品に慣れた者なら、そう驚かないだろうが――この映画が映し出すのは、一種のテロリズムだ。とある日、健常者の女性がレストランで知的障害者の男と遭遇する。店内で騒ぎを起こす彼はレストランからつまみ出される。あとから心配になって女性が追い掛けると、彼は自分が実は健常者であり、今の奇行は演技だったのだと笑う。彼によると、同じように知的障害者を装った人物のグループが集団生活をしているらしい。彼女は成り行きで彼らに合流する。これがこの映画のプロットである。

知的障害者を装う彼らの姿は、もちろん不謹慎極まりない。その意味では映画のタイトルである『イディオッツ』(つまり愚者)とは、そんな彼らのことを直接表現していると言っても良いだろう。だが、彼らが炙り出しているのが健常者の偽善的な対応やあるいは困惑、そして愚者を持て余している社会の愚かしさであることも確かなのだ。その意味では健常者にも「イディオッツ」という言葉は相応しいのかもしれない。そこまでラース・フォン・トリアーが計算して撮ったとしたら、なかなかしたたかであると言えるだろう。

映画に関して私はエンターテイメント性を重視してしまうので、そこから考えるにこの作品を前のめりになって観られたかというと、そうではなかった。半ばドキュメンタリー映画にも似た生々しさは確かに買いだと思われるのだけれど、退屈さを感じたのもまた確かだった。だが、この生々しさ故に映画が無視し得ないものとなっていることも事実だと思われた。例えば乙武洋匡のような論客はこの映画をどう評価するだろうか。なかなか興味深い。私は手放しで礼賛する気はないが、しかし難しい問いを敢えて放つ姿勢は買いたい。

だが、この映画は社会派的なアプローチには至らない。つまりラース・フォン・トリアーは(当たり前過ぎる話になるが)ケン・ローチダルデンヌ兄弟のような姿勢を採らない。彼が採る姿勢は結局は、なるほど行政の偽善的な対応も現れることは繰り返すがしかし基礎的にはタブーを破って喜ぶ児戯的/原始的な戯れに終始しているかにも感じられるのだ。分かりやすく言えば、やってはいけないことをやって喜ぶお子ちゃまの態度と言えば良いか。例えば葬式で音を立てておならをする、というように。かといって笑いの要素もないのだが……。

この映画で印象的な場面は、集団で全裸になってセックスに興じるところである。とは言え官能的な戯れではない。単純に考えて、全裸になることは気持ちが良い。それは来ている洋服を脱ぐという、ある種の束縛を解き放つ行為だからだ(だから、プライヴェートでは「裸族」と呼ばれる人が存在し得る)。この映画のタブー破りもそういう全裸になる心地良さに充足していて、別の表現をすればそれに終始している感がある。そのあたり、私は観ていてデヴィッド・フィンチャーファイト・クラブ』にも似たものを感じてしまった。『ファイト・クラブ』もまた児戯的なテロリズムの話だったからだ。

児戯的なテロリズム……ラース・フォン・トリアーの作品は結局そういう「児戯」に落ち着いてしまうのかもしれない。いや未見の作品もまだまだあるので(特に『ドッグヴィル』と『ニンフォマニアック』は観てみないとと思いつつ怠惰により手を伸ばせていない)単純には判断出来ないのだけれど、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が基本的には「児戯的な」悲劇でありお伽噺にも似たミュージカルだったように、この映画もリアリティを欠いている。社会との接点が存在しない映画、と言おうか。ラース・フォン・トリアー自身もそれを分かっているからこそ、とことん主観的にカメラワークを計算しているのかもしれない。そんなことを考えてしまった。

お伽噺。特に深い考えもなくこの言葉が出てしまったが、ラース・フォン・トリアーはそうやってお伽噺を撮り続ける監督なのだろうと思う。これから『ドッグヴィル』を観る予定なのだが、同じ胸糞悪い映画を撮るミヒャエル・ハネケがしかし巧みに悪意を織り交ぜて社会派のアプローチを続けるのに対して――『白いリボン』でナチズムを描き、『愛、アムール』で介護問題を描き、『ハッピーエンド』でも政治は生々しく登場したことを思い出そう――ラース・フォン・トリアー自家中毒に淫している。そこが好きになれない原因なのかもしれない、と思った。