ワン・ビン『無言歌』

無言歌(むごんか) [DVD]

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実に興味深い映画だ。面白い、というわけではない。エンターテイメントという面から観ればさほど「面白い」ものではない。むしろ起伏もなにもない地味で退屈な映画だ。だけれど、単純に駄作と斬って捨てられない「面白さ」があることもまた事実なのだった。それをどう説明すれば良いのか、いつもながら悩んでしまう。

時は1960年の中国。文革前の時代、インテリたちが右派とレッテルを貼られてゴビ砂漠に送られる。アウシュヴィッツを思わせるその過酷な収容所で彼らは強制労働を強いられる。その日食べるものにも困り、ネズミを捕まえて飢えを凌ぐという凄惨な日常にある日ひとりの女性が来訪して……というのがプロットだ。

極限状態に追いやられた人間の精神はどうなるのだろう? というのがこの映画を観て感じた率直な問いだった。例えばそれはV・E・フランクル『夜と霧』が描くような、およそ人間らしさが摩耗した無感動な状態に陥ってしまうのかもしれない、と。この映画では人肉食さえ当たり前のこととして登場する。観ながら大岡昇平『野火』を連想した。

感動、あるいは怒り、悲しみ……そういった感情が欠落してしまいなにも感じられなくなってしまった人々のところに、夫を探して都会から女性が訪れる。彼女は自分の夫が亡くなったことを知り泣き叫ぶ。この泣き叫ぶところ、感情がまさしく爆発するあたりが流石はドキュメンタリー映画の監督と思わされた。人間を良く見ている、と。

つまり、そうやって感情を爆発させることが出来る人――すなわち人間性を保持することの出来た人――と、そういう爆発が出来なくなってしまった人の対比がここで浮き彫りになっているのだ。だからこそ、彼女の演技は何処か違和感を伴うものとして(つまりオーバーアクションに)映り、しかし「だからこそ」悲劇性が際立つ。

カメラワークは単調で、登場人物に寄り添うように展開される。こちらを睥睨するような高みに立っていないところもこの監督の美点と言えないだろうか。ワン・ビンの映画はこれが初めてなので分からないところも多々あるのだけれど、これはぜひ他の映画も観てみたいと思った次第である。

この映画のタイトルは「無言歌」。誰が考えたのか分からないが、巧いタイトルだと思う。歌なのに、それを歌う声が存在しない。この映画の登場人物の寡黙さ――もちろんそれは飢えて喋れないから、というのが原因なのだが――を良く捉えたタイトルだと思われる。

極限状態……とことん精神がダメージを食らい、どんな仕打ちをも無気力に受け容れることしか出来ない人たちの生は悲惨だ。ワン・ビン監督は事件の時代背景を描かない。だからその分こちらの基礎教養を試されるので、事前に文革前の中国について知ることを勧めたい。でも、教養がなくともざっくり「これはアウシュヴィッツの映画なのかもしれないな」と思いながら観るのもアリではないかと思う。私自身中国史に疎い身なのでそんな野蛮な鑑賞をしてしまったのだけれど、なかなか面白く楽しめたと思う。それがこの映画の力だろう。

それにしても、と思う。世界は本当に広い。この映画は政府の目を盗んで撮られたと聞くが、この映画が告発しているような現実が本当に存在するのだ。それはそのまま今も何処かで存在し続けているのだろう。その「リアル」をこちらも居住まいを正して受け取らなければならない。

繰り返すが、エンターテイメント的に「面白い」かどうかと問われれば、そんな甘い映画ではないと返す。それはアウシュヴィッツの日常がエンターテイメント的に「面白い」ものでは断じてないのと同じ意味を持つ。絶望の果てに追いやられた人々の日常は「面白い」ものではあり得ない。むしろ何処までも退屈なものだ。この映画の退屈さもその日常――こういう日常をこそ「終わりなき日常」と呼ぶべきだと思うのだが――をそのまま描いたがために、当然の帰結として成り立っている。それを読み取らなければならない。

この映画は、『ひきずる映画 ──ポスト・カタストロフ時代の想像力 (CineSophia)』という本を読んで知った。興味を惹かれて手にしたのだけれど、当たりだったようで嬉しくなってしまった。『ひきずる映画』自体も良い本だと思うので、興味がある方は手に取られることをお薦めしたい。

と、この程度のことしか書けないのが私の限界なのだった。中国映画については無知も甚だしいので、彼と同世代の作家や作品について比較対照させることなんてとても出来ない。これ以上のことはもっと映画を観てから考え直したい。今はただ、ここまで悲痛な退屈さというのがあるのかという感慨を味わうことにしたい。そして、その悲惨な退屈さ(あるいは凡庸な悪夢としての日常?)を他の映画と照らし合わせて、例えばこの映画が優れているところは何処なのか、それをじっくり考えて行きたいと思う。ワン・ビン、また興味深い映画監督を知ってしまった。