ラース・フォン・トリアー『ニンフォマニアック』

ニンフォマニアック Vol.1/Vol.2 2枚組(Vol.1&Vol.2) [DVD]

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前編と後編、合わせて四時間。なかなか見応えのある映画だった。『ドッグヴィル』を超えるスケールで描き出されるのは、有り体に言ってしまえば色情狂的な――「ニンフォマニアック!」――ストーリーだ。ひとりの女性が瀕死のところを男に助けられる場面から物語が始められる。女性が語り始める話は、自分自身の半生だった。それは徹底的におぞましく、セックスに満ち溢れた依存症の女性として生き抜いて来た女性の姿だった……というのがプロットになる。以下ではネタを割るので、観る前に注意していただきたい。

この映画ではラース・フォン・トリアーによってあらゆる性癖の歪みが露呈される。例えば幼少期の性の目覚め、初体験、男を誘う遊戯、そしてやがてそれはマゾヒズムへと繋がり、一方では父子相姦となって現れることだろう。男なら誰でも良いと言わんばかりに。それだけではない。この映画はサディズムマゾヒズムにも立ち入り、あるいはレズビアンを描くことにもなる。そして、小便をかけるというスカトロジーまでも描かれるのだ! ここまで徹底して「変態」な映画もそうないだろう。だが、性描写だけなら誰でも(私でも)出来る。

この映画は本当に良く出来ている。偶然がストーリーを巧みに――悪く言えば御都合主義的に――転がすあたりは村上春樹の小説のようだ。だからこそ、私は村上春樹の小説に感じるものにも似た違和感を以て受け容れてラスト・シーンに辿り着いた。そこで目にしたものは、「計算尽くなら」流石はラース・フォン・トリアーと思うだろうバッド・エンドだった。この映画を観て、間違っても「女性が主体性を握り人生を生きることを取り戻す映画」と思ってはならない。そこを読み違えてはなんのための四時間だったのか分からなくなってしまう。

ネタを割る。男に対して全てを話し終えた女は、自分がセックス依存症ニンフォマニアックであることから自由になり主体性を取り戻せたと語る。それを自称アセクシャルの(つまり、誰にも性欲を抱かない)男はカウンセラーのように聴き、彼女を励ます。だが、その後男は眠りに就いた女を犯そうとするのだ。この展開はどうだろうか。女が主体性を取り戻せたと確信したその確信を、男は言葉にならない欲情で覆させる。これが悪い意味での反・フェミニズムでなくてなんだというのだろう。どれだけ女が主体性を取り戻せても、結局は男社会から抜けられないではないか、と言わんばかりだ。

だからこそ、この映画は批判されなければならない。いや、私が例によって深読みし過ぎているだけかもしれないし、個人的にさほどラース・フォン・トリアー作品に対して良い印象を抱いていないからこの評価に繋がるのかもしれない。くれぐれも強調しておくが、観るべき価値がない愚作と言いたいわけではない。むしろフェミニズムを――そのダーティな面もクリーンな面も――知りたいならこの映画は必見だろう。そして、この映画が生み出すなんとも言えない違和感を体感して欲しい。女が鞭打たれることを体験したように。

いつもながらカメラワークは静謐で上品。傍に寄り添う時はドキュメンタリー・タッチで、まるでリアリティのないストーリーを説得力あるものとして語ることに成功していると思う。そして、今回は音楽の使い方も見事でこの監督はあるいはレオス・カラックス汚れた血』あたりを意識したのではないかと思われるほどだ(トーキング・ヘッズ!)。その点でアラはないし、シャルロット・ゲンズブールの演技も完璧としか言いようがない。赤く腫れ上がったお尻が痛々しく、身体を張った演技をしていると感じられた。そこは認めるに吝かではない。

ここで話は振り出しに戻るのだ。良く出来た映画だ。さながら岩井俊二リップヴァンウィンクルの花嫁』(の前半部分)にも似たテイストを醸し出している……と書くと無知を笑われるだろうか。そして、岩井俊二が決して描かないだろうモノ、つまり糞尿をもストーリーの中にウェルメイドに取り込んでみせ、それでいて決してグロテスクに堕しない。独自の世界を築き上げていると感じられる。確かにこんな映画監督、世界に他に居ないだろう。彼が日々ファンを着実に増やしているのも頷けるキレッキレの作品だ。だからこそ、その反動的な態度にこちらは蓮實重彦ではないが憤りを以て接しなければならない。

ラース・フォン・トリアー。私は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が初見であの時言葉に出来ない憤りを感じたので、どうにも好きになれない監督だ。『メランコリア』『アンチクライスト』『ドッグヴィル』もグレートだが、好きになれるのはどっちかと言われればまずハネケの方を選ぶ。『ファニーゲーム』も『隠された記憶』も『白いリボン』も、『愛、アムール』もいずれもチャーミングな作品で己に向けられる批判を理解し抜いている。彼が如何に正義感が強い存在なのかは『ファニーゲーム』一本観れば足りる。だが、ラース・フォン・トリアーはそうではない。そこに両者の差がある。