ドゥニ・ヴィルヌーヴ『メッセージ』

困ってしまった。この映画を観るのは二度目なのだが、一度目に観た感動は薄れていなかった。私はドゥニ・ヴィルヌーヴの映画は他には『ブレードランナー2049』しか観ていないという体たらくなのだが、あの監督らしい静謐さが上品な逸品だと思われたのだ。ヨハン・ヨハンソンの音楽もしっくり馴染んで、なかなか見応えのある世界を作り上げている、と。しかし、観終えた感想をどう書けというのだろう。これほど語りにくい映画もそうそうないのではないか。無理を押して語ってみることにする。さてどうなるだろうか。

スジ自体は「ファースト・コンタクト」ものと整理出来る。突如として現れた巨大な十二の物体。宇宙船と思しきその物体に、ある女性の言語学者が男性の数学者/物理学者と一緒に軍部に招かれて入り込むことになる。彼女たちが依頼されたのは言葉を解読するというもの。ヘプタポッド(七本足、という意味)と名づけられたエイリアンと彼らは試行錯誤の中、ヘプタポッドが語る/描く文字を解読することが出来るようになりそれに伴って彼らとの意思疎通が次第にスムーズになっていく。だが、彼らとの交流を好ましいと思わない中国の軍人が国連から抜けて……というのが主なプロットだ。

さて、どう語るべきだろうか。政治的な切り口から語るならこの映画は現在の世界情勢を描いた映画とも受け取れる。中国は改めて手強い国、しかし味方として組めばこれほど頼もしい国もない、というメッセージ(!)が込められている、と……というのは少々底意地が悪い観方ではあるだろうが、要は世界がひとつになることの重要さ、異世界/異文化の存在に対して何処まで寛容になり得るかを問うているのだと考えれば、監督の温厚なリベラルぶりが伺える。悪く言えばその分メッセージとしてヌルいとも受け取れるのだが……。

しかし、そんな語り口では映画の面白さが損なわれてしまうとも思った。この映画はサイエンス・フィクションなのだけれど、同時に死生観を問われている映画でもあると思われた。以下ではネタを割る。この映画で女言語学者はヘプタポッドの言葉を理解する。それはつまり、時間という概念を超越したヘプタポッドの思考能力が自分の中にインストールされてしまうということでもあった。彼女は時間を超えて、未来を幻視することが出来るようになる。その知識で彼女は人類を危機から救うのだが、同時に彼女は最も直視したくない現実を突きつけられてしまう。

どういうことか。彼女は子を授かる。将来……しかし、難病である疫病が流行りその娘は自分より先に亡くなってしまう。それがヘプタポッドの言葉を理解することで分かってしまうのだ。避けようもない運命……だが、彼女はその子を授かる人生を選ぶこと、そんな人生を生きることを決める。何故なら死別すると分かっていてもなお(あるいは、だからこそ?)彼女と共に生きることは尊いことだからだ。生きることは、バッド・エンドで終わってしまっても尊い……そんな「メッセージ」が臭みを感じさせず伝わって来る。

このあたり、一度目に観た時も巧いなあと思ったのだけれど二度目も涙腺が緩みそうになった。ドゥニ・ヴィルヌーヴの静謐な映像の美しさとヨハン・ヨハンソンの音楽、そして俳優陣(エイミー・アダムス!)の演技が相俟って渋い面白さを醸し出していると思われたのだ。派手に泣き叫び感情を爆発させる映画では生み出せない渋さと言えるだろうか。横綱相撲でも観ているかのような、堂に入った演出にやられてしまった。私も一度しかない人生を大事に生きたい、と考えてしまった。その意味で人生に悩んでいる人は観てみるのも悪くないかもしれない。

ここで困るのである。逆に言えばそんな人生訓的な「メッセージ」に誘導するように映画が出来ているので、演出や演技の面白さを分かりやすく語ることが出来ないのだ。高度なことをやっている、と伝えるくらい。何気ない光の当て方、カメラワークの遊び方……全てがキューブリック並みに統率されている。ドゥニ・ヴィルヌーヴ、なかなか侮れない監督と感じられた。『ブレードランナー2049』も観直したくさせられてしまった次第。他の監督作品もチェックしてみる必要があるようだ。知らなかった自分を恥じてしまった。

なるほどケチのつけようはある。全てが予定調和的に進み過ぎているという……つまり展開のスリルでこちらを引きつけるというより、既視感のある展開をそれでもなお(オチが分かっている話であっても、それでもなお)魅せることに腐心し過ぎているというものだ。だが、それも瑕瑾に過ぎない。私もそろそろ老い先短い。これからの人生をどう生きるか、この映画を観て悔いのないように生きたいと考えさせられてしまった。この映画に誘われて、サイエンス・フィクション嫌いだった私も原作を読みたくさせられた。これは立派と言えよう。