ジョナサン・グレイザー『記憶の棘』

ジョナサン・グレイザーという人は、調べたところによるとミュージック・ヴィデオでキャリアを積んで来た人らしい。例えばマッシヴ・アタックの『Live With Me』。これは YouTube でオフィシャルのものを観ることが出来るのだけれど、百聞は一見に如かず。まあ観て欲しい。その迫力に打ちのめされるはずだ。


Massive Attack - Live With Me

記憶の棘』という映画に誘われたのは、宮崎哲弥映画365本 DVDで世界を読む (朝日新書)』で紹介されていたからというのが大きかった。宮崎哲弥は好きな論客なので、好意的に語られているのを読んでつい食指がそそられてしまったのだった。観終えて、ジョナサン・グレイザーについて調べたらそういう情報を得て、今更ながら自分が迂闊だったと思ってしまったのである。一応音楽は映画よりもフォローして来たつもりだったのだけれど、こんな才能を備えた監督が存在することを知らずに来てしまったのだから。

この映画はしかし、手放しで礼賛出来るものかというと難しい。いや、愚作/駄作ではないのだ。ストーリーは実に興味深い。結婚が決まった未亡人のところに、十歳の子どもが訪れる。彼の名はショーン。その名前は、亡くなったかつての夫の名前そのものだった。ショーンと名乗る子どもは、自分は生まれ変わりなのだと告げる。未亡人は選択を迫られる……というのが主なプロットだ。ミステリアスなストーリー展開はしかし、さほど巧いとは言い難い。伏線の張り方がもう少し凝っていればと惜しまれるところが多々ある。

スジでしか映画を語れないのが私の弱点であることは日頃から痛感しているのだけれど、例えば回想シーンを挿れるなり未亡人にショーンとの思い出を語らせるなりして幸福だった「かつての」結婚生活を描いていれば登場人物にもっと感情移入出来たのではないかと惜しまれもする。夫婦生活にまつわる生々しさが欠如しているのだ。でもそれはジョナサン・グレイザーも分かって撮っていたのかもしれない、とも思う。主眼はそんなところにはなかった、と言うべきか。彼がこだわりたかったのはストーリー展開の遊びではなかった、と。

彼が拘泥したのはではなにか。それは未亡人を演じるニコール・キッドマンをひたすら美しく描くことではなかったのかと思う。ジョナサン・グレイザーは『アンダー・ザ・スキン』という映画を撮っていてこちらではスカーレット・ヨハンソンが謎めいたエイリアンを演じているのだけれど、スジらしきスジはない不思議なサイエンス・フィクションだった。全裸になるスカーレット・ヨハンソンの魅力だけを絞って撮ったような、そんな作品だったのだ。ジョナサン・グレイザーは女性を描くことにフェティッシュな欲望を抱いているのではないか。

だから、結果としてニコール・キッドマンの魅力が全開になった作品となっている。そしてそれは決してB級の映画として斬って捨てられないものなのだから困ってしまう。監督作としてはこれが初めてとは思えないほど堂に入ったものとなっているのは流石にミュージック・ヴィデオで研鑽を積んだからではあるだろう。それ故の悩ましさを感じるのもまた確か。いや、良く言えば人間の冷ややかなエロティシズムを描きたいという意味ではスタンリー・キューブリックにも似た資質を感じると言えば言えるのだけれど「生まれ変わり」にはならなかった、というのが評価となるだろうか。

ともあれ、ジョナサン・グレイザーという監督は無視し得ない存在であることは改めて確認出来た。女性と、あとは荒涼としたクールなタッチの風景を描くことには長けていると思われたので、それ以上の要素を求めてしまいたいのが正直なところ。もっとオーソドックスに堂々と「映画」していても良いのではないかと……でも、この路線を突き進めて『アイズ・ワイド・シャット』みたいな作品を撮って欲しいとも思われるのでそこで困ってしまう。そうなると勝負すべき相手は例えばデヴィッド・フィンチャーになるわけだが、そこまでの才能を秘めた存在と見做すことは私には出来ない。

とまあ、ケチを色々つけてしまったのだけれど愚作ではないので念の為に。興味深い佳作だと思われたし、同じようにミュージック・ヴィデオから出て来たマーク・ロマネクのような監督と一緒にその成長する過程を見守りたいと思わされた。大化けする可能性もなくはないかな、と……ここまでクールな質感でエロスを描く作品は私の貧しい映画的知識では『アイズ・ワイド・シャット』くらいしか思い当たらないので、そこでボロが出てしまうのだった。『アイズ・ワイド・シャット』も考えてみればニコール・キッドマンが出て来てたのだが、ジョナサン・グレイザーが何処までこの作品を意識していたのかは考えると興味深いと思う。