山下敦弘『オーバー・フェンス』

オーバー・フェンス 通常版 [DVD]

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困った。この映画について語るとなると、私のことを語らなくてはならない。何処まで語ったら良いものか……私は四十代なので、この映画に出て来るオダギリジョーの設定とほぼ同世代である。中年であり、いわゆるミッドライフ・クライシスを抱えている。その意味ではグサグサと突き刺さるものがあった。それは認めるに吝かではない。逆に言えば、そのグサグサを割り引いてフェアに観なければ映画に対して失礼ではないかと思ってしまった。それもあって余計に厳しい評価を下してしまうのかもしれない。恥ずかしいことだけれど。

妻と別れ、函館にオダギリジョーが戻って来る。彼は職業訓練校に通い大工になる練習/研鑽を積んでいる。とはいってもカネ目当てのようなものでやる気などこれっぽっちもない。ある日、同じ学校に通う人物に誘われてキャバレーに行く。この店を副店長として任せても良いかとオファーされ戸惑う彼。そんな彼の前に現れたのが、ひょんなことですれ違っていた蒼井優だった(ちなみに彼女の役名は「聡」、つまり「サトシ」だ)。成り行きでふたりはつき合うようになり、蒼井優のエキセントリックな言動にオダギリジョーも心を動かされる。これが大まかなプロットだ。

さて、私が四十代であることは書いた。もうひとつ言えば私は人の気持ちというものが表情を通じてしか理解出来ない。これも日常生活で困っている。つまり、竹中直人ではないが「笑いながら怒る」人が目の前に居たとしても、彼が言うイヤミや皮肉を理解出来ないということだ。これは私の人間性の問題なのだけれど……もっと言えば私は人の顔を覚えられない。蒼井優池脇千鶴を見間違えるなんてしょっちゅうある話なので、まあ、私が顔面から気持ちを読み取る力は三歳児並みと思っていただければ有難い。それで散々しくじって来たし、これからもしくじることだろう。

なにを言いたいかというと、「この映画で何故この人物はこんな行動を?」ということが分からないまま『オーバー・フェンス』を観てしまったからだ。何故居酒屋でオダギリジョーは静かにキレるのか(あの場面がキレていたことを表現しているのはなんとか理解出来た)、何故別れた妻と会ったあとにオダギリジョーは泣くのか、何故蒼井優は自分からオダギリジョーを誘っておきながら帰りはタクシーで変えるようにと素っ気なく突き放すのか、そんなことがまるで分からないまま観てしまったからだ。こちら側の気持ちが映画の表現しているエモーション/ムードについていけない、というべきだろうか。

だから、この映画は私ではなく定型発達者が観た方が楽しめる類のものなのかもしれないなと思ったのだ。中島哲也園子温の映画などが典型だと思うのだけれど、映画には感情を「分かりやすく」爆発させたり抑制させたりする演技が存在する。そういうものをこの映画に――引いては山下敦弘監督の映画に?――求めてはいけないのかもしれないな、と思ったのだ。パッと見キレているように見えて実は醒めていたり、笑っているようでありながら怒っていたり、悲しんでいたり……そういう「上級者」向けの映画なのかな、と。

そういうわけで、原作は例によって未読なのだけれど私のようなロスジェネを念頭に置いて作られたと思われるこの映画に、私はフェアに接することが出来ない。ある程度までは自分のことのように感じられて突き刺さる。決して駄作/愚作ではない。俳優陣の演技の見事さは先にも書いた。丁寧な(監督もその他のスタッフももちろん含めた)仕事の結果だと思っている。グレイトな作品なのだけれど、私は「選ばれなかった」人間なのかもしれないなと思われた。私の生きづらさの理由が色々な意味で分かったかな、という。

だが、それも「ある程度までは」なのだ。感情の読めなさについては繰り返すまい。それに、エンディングであまり良い印象を抱かなかったこともまた確かだ。様々な人間が織り成すドラマは、多様な価値観を提示させる。世の中には、メインストリームの映画やドラマが描かないような色々な人間が居る……そんな当たり前といえば当たり前のことを教えてくれる。そんな人々が、しかし致命的にぶつかり合うことなくマイルドにやり取りを交わし、そして変わるかというとあのエンディングは疑問に思うのだ。あの結果でオダギリジョーは変わったのだろうか、と。

マイルド、という言葉を使ってしまった。尖ったものをマイルドな外見ないしは語り口の中に隠し持っているのが山下敦弘監督の作品の特徴だと思っているので、その美点は理解出来たつもりだ。だけれど、アキ・カウリスマキ監督にも似て自分とはやっぱり相容れないものがあるのかもしれないなと思ってしまった。くどいが、駄作だとか観る価値がないとかそんなことはひと言も言うつもりはない。良作だ。語るまでもない作品を語りたいと私は思わない。だが、だからこそ、なのだ。何故あの場面でオダギリジョーは泣いたのか?