ドゥニ・ヴィルヌーヴ『ブレードランナー2049』

まだ映画に興味がなかった頃、リドリー・スコットブレードランナー』を一応観たことはある。十年くらい前のことだろうか。退廃した都市がカッコ良いという、その程度のことしか考えなかった。まだ映画の観方というものを分かっていなかったのだ。そのくせ「この映画は『ブレードランナー』的だな」という風についつい使ってしまうので困る。サイエンス・フィクション映画において『ブレードランナー』が果たした役割はそれほど革命的だったと言っても良いだろう。ではその続編にあたる『ブレードランナー2049』はどんな話なのか?

Kという名の捜査官が居る。時代は2049年。人間の下で働く奴隷として人造人間・レプリカントが製造される。だが彼らは人間に逆らって反乱を起こす。反逆するレプリカントを始末する人間のことをブレードランナーと呼ぶようになった。Kもそのブレードランナーのひとりで、レプリカントでもある。Kはその日もレプリカントを一体始末する。その後、ふと気になりレプリカントが住んでいた家屋のそばに建っていた樹の根元を調べて、なにかが埋められていることを知る。それは骨だった。その骨は女性のレプリカントのもので、妊娠していたことが明らかになる。レプリカントにはまずあり得ない事態だ。警察とレプリカント製造会社タイレルはその真相を救命する。それはそのまま、Kの「父殺し」を予言する出来事でもあった。これがプロットである。

サイエンス・フィクションに関しては全く疎いので、この映画を何処まで語れるか心許ないがやってみよう。この映画は近未来を描くことを見事に成功していると思われる。『ブレードランナー』でも印象的だった、雨が降る都市のうらぶれた人混みの描写。Kのパートナーになってくれるジョイという人工知能のキュートな魅力。このあたりは『メッセージ』でも優れたヴィジョンを示してくれたドゥニ・ヴィルヌーヴの資質によるものだろう。今ちょうどこの監督の過去作をディグっているところだ。きっとこの監督はデヴィッド・フィンチャークリストファー・ノーランと拮抗する才能を見せつけるに違いない。

近未来を描き、そしてこの映画は素朴に愛を描いている。Kとジョイのぎこちない、幼い愛の姿を見よう。自分がホログラムであるが故に自分を抱けないジョイが、ジレンマに陥って現実のコールガールに自分をシンクロさせて交わるあたりが実に痛々しく感じられる。それだけではない。この映画はレプリカント同士の禁じられた愛の物語でもあるし、敵と味方の愛の物語でもある。Kの上司の女性もKに対して恋心を抱いているフシが見て取れる。親子の愛の話でもあるだろう。Kは自分が殺したレプリカントが父だったのではないか、と疑うようになるのだ。

二転三転する展開は実にスリリングで、悪く言えばその分難易度は高い。だが、難解なものはいっそのことディテールにこだわらずに大雑把に掴んでしまおうではないか。この映画が示しているのは「偽物/贋物」とはなにかなのだ。例えば私なら私の記憶はもちろん本物の記憶だ。あらかじめ製造されたものではない。Kがそうであるように、誰かによって植えつけられてアイデンティティを辛うじて保つためだけに存在する類のものではない。しかし、それをどうやって証明すれば良いだろうか。他者の存在が必要になる。逆に言えば、他者が「お前の記憶は『偽物/贋物』だ」と全員証言すれば私の記憶は疑われる。

本物なのか、偽物/贋物なのか。それを判断する根拠はその対象の内部には存在しない。私が幾ら「私は本物の記憶を持っている」と言っても、それを信用してくれる「決定的な」エビデンスは示せない。記憶は複製可能なものなのだ。愛に関しても同じことが言えないだろうか。ホログラムに過ぎない人工知能との愛は、人間もしくはレプリカント同士の恋愛と比べて本物なのか嘘っぱちなのか。それを判断/ジャッジするのは誰になるだろうか。結局はこの私が決めるしかない。私が主体的に信じられるものだけを信じる。斯くして問題は「自分を信頼出来るか?」「主体的に生きるとはどういうことか?」に戻る。

そう考えていけばこの映画が『メッセージ』と裏返しになっていることに気づくだろう。ストーリーこそ異なっているけれど、『メッセージ』もまたどうにもならない人生を主人公が主体的に生きることの重要さを取り戻す話だった。その意味ではドゥニ・ヴィルヌーヴという人物はブレていない。『プリズナーズ』も主体をめぐる物語だった。今後彼の作品を観ていって、現代人ならまず苦悩の種としてぶち当たらざるを得ない「主体的に生きるとはどういうことか?」という問いがどのあたりから始まるのか遡行したいと思っている。

これはしかし、くどいがざっくり斬って捨てた感想である。私の理解不足故に取り零したところが多々あるかもしれない。そのあたりを、本家本元の『ブレードランナー』を観直してからまた考え直したい。いや、これはリドリー・スコットも唸る出来なのではないか。