フェルナンド・メイレレス『シティ・オブ・ゴッド』

困った。この映画に私は打ちのめされてしまった。だけど、例によってそれをどう伝えたら良いのだろう。確実に言えるのは、生ぬるい日本の現実をぶっ飛ばすようなブラジルの「リアル」がここにある――この映画は実話に基づいているそうなので――ということだ。それを提示してみせ、なおかつエンターテイメント的にも優れた達成を示している。それだけでこの映画は凄いと思うのだ。だけど、あまり個人的にお薦めはしかねるのもまた正直なところ。例えば松本人志が仕切るヴァラエティ番組のノリと似たようなものを感じた、と言えば伝わるだろうか。優れているのだけれど好きにはなれない、という……。

この映画は主人公/語り手はウスバルという新聞社のカメラマン志望の若者で、彼が生まれ育ったブラジルのスラム街が舞台となって展開される。そこはもうなんでもありの世界。幼い頃から銃を持ち、面白半分で人を殺す。罪悪感もなにもなく、呆気なく人は人を撃つ。そんな中でギャング/ストリート・チルドレンがのし上がり、抗争を開始するという話だ。警官もカネを握らされてロクに捜査もしない。主人公の若者は中上健次の小説よろしく、様々なカリスマたちが登場しては死んでいったその悲劇を淡々と語る、というのがスジである。

中上健次の名を出してしまったが、例えば『千年の愉楽』にも似たものを私はこの作品に感じた。もっと言えばラテンアメリカ文学にも似ていると言えるだろう。西洋の映画と比べると登場人物は多く、誰も彼もキャラが立っており活き活きと動いている。私は不勉強にして未読なのだけれど『百年の孤独』がこういう作品と対照的と言えるのではないか? 時系列をズラし、『アモーレス・ペロス』や『パルプ・フィクション』のように凝った構成でこちらを魅せる。その語り口の凄まじさに息を呑む。なかなかの策士の映画、と言えそうだ。

映像はヴィデオ・クリップにも似ていて(日本で言えば中島哲也堤幸彦?)、躍動感に富んでいる。前に『ナイロビの蜂』を観た時にも思ったのだけれど、この監督はMTV以降の感性を持った人であり(MTVは流石にもう古臭いかもしれないが、だというのであればポスト・フィンチャーと言えば良いか)、従って陰惨な映画なのだけれど壮絶になり過ぎない程度にポップにこちらを誘導してくれる。起こっていることの凄惨さとその映像の躍動感の軽さという奇妙な矛盾がこの映画を忘れられないものにしていると思われる。

それにしても、兎に角ドンパチの激しい映画だ。北野武クエンティン・タランティーノエミール・クストリッツァが大人しく感じられるほど凄まじい。これもまた私はブラジルの「リアル」として受け容れなければならないのだろう。子どもを殺す場面のアクセントが非常に効いていると思った。そういう「弱い者いじめ」的なところが私は好きになれないので、日本のヴァラエティ番組にも似た映画だなと思ったのである。と書くとこれもまた頓珍漢かもしれないが、観て損はしない映画なので是非とお薦めしたいところだ。

そんなところだろうか。まとめるとラテンアメリカ文学の語り口を備えた、ポスト・フィンチャー感覚の映画となるだろう。ダニー・ボイルケン・ローチのように社会派しているわけでもなく、ひたすら軽妙にこちらに「リアル」を突きつける。それをこちらも受け容れざるを得ない。そんな類の映画だ。舐めて掛かると火傷を負うだろう。注意した上で挑んで欲しい逸品だと思われる。いや、私の映画的な知識が乏しいのでこの映画をきちんと語る言葉を持たないが故にこんな表現になってしまう。手持ちカメラのブレの激しさが躍動感を更に富んだものにしていると思われる。

フェルナンド・メイレレスという人物はしかし、一体何者なのか。それを知るべくこれからネットを漁ってみようかと思っているところ。このような資質の人間が撮る「エンターテイメント」はきっと、今後優れたものとなるだろう。才能を備えた人物だと思う。侮れない。女友だちが薦めてくれた『ナイロビの蜂』で知った監督なのだけれど、このような出会いがあるから映画鑑賞は止められない。この監督の名前は覚えておいて損はないようだ。関係ないことだが、私はこの映画を観て中上健次の小説を読み返したくなってしまった。

途中で挿入される「セックス・マシーン」の使われ方も見事で、音楽の使い方も長けた人なのだなと思われた。音楽が巧い監督にはこちらも観方が甘くなってしまうので、その意味では私の贔屓目も入ってしまっているのかもしれない。ともあれこの映画は、こちらの倫理観を試す映画でもある。殺人が悪だなんて説教をどれだけ唱えたって、殺すために殺す彼らの前では無力だろう。殺らなきゃ殺られる……そんな日常を生きる彼らにどんな言葉なら届くのか。そう考えると、昨今のネット上でのディスり合いも彼らの生活と似たようなものではないかとも思うのだ。