クリント・イーストウッド『15時17分、パリ行き』

クリント・イーストウッドに関しては、いずれきちんと『ミリオンダラー・ベイビー』『ミスティック・リバー』といった作品を観ないといけないなと思いつつ手が回っていないのだった。彼の世界に関しては本当にシロウトなので、さてどう論じれば良いのだろうか。

15時17分、パリ行き』を紹介されているあらすじ通りに、三人の男が――実話に則って――テロリストと勇敢に戦い乗客を救った話だと理解して観ると、この映画は逆に分からなくなる。そういう映画でないとは言わないがその要約は間違っているし、この映画が語らんとしているメッセージはもっと別のところにあるからだ。「人はいざという時に、自己責任の下において行動出来るか?」という、極めて厳しいテーマがこの映画を貫いていると思われたのである。それについて少しずつ語って行こうと思う。さてどんな風になるだろうか。

クリント・イーストウッドは老練な手つきで三人の若者、特にひとりの若者の姿/半生を描いていく。三人は学校ではいたずらっ子で学校で問題を起こしてばかり。ひとりはアフロ・アメリカンで他のふたりは白人だけど、彼らは仲が良かった。つるんで悪戯ばかりしては叱られて……しかし三人はそれぞれ別の人生を歩み始め、男は軍に入り猛練習を積む。だが志願していたところには行けない。視覚に問題があることが分かったからだ。彼は人命救助のノウハウを軍で学ぶことになる。それが後々に生きて来る、というのが主なプロットである。

過不足なく、クリント・イーストウッドは三人の男の半生を、あるいは日常を描く。そこにあるのは一見するとスリルやサスペンスとは無縁の、何処か弛緩したような日々だ。だけど、クリント・イーストウッドの映画に弛緩という言葉は似合わない。『アメリカン・スナイパー』では狙撃兵の日常を、『インビクタス』ではネルソン・マンデラの日常をなんら弛緩することなく描き切っていた。クリント・イーストウッドの美点はそういう「日常」を緊張感を以て引き締まった映像で描くことではないかと思っているので、それはこの映画でも確認出来た。

結果として浮かび上がって来るのは、どんな局面においてもベストを尽くせということだろう。人はなりたいものになれるわけではない。必ずしも夢は実現するとは限らない。だけど、ベストを尽くせばそれは別のステップで報われる。そういうポジティヴなメッセージがこの映画を貫いている。裏返せば、腐ってしまったら人間は(もしくはそいつの人生は)終わりだという厳しいメッセージとも受け取れるのでそのあたり取り扱いは注意が必要となろう。これからそのあたりに留意して。彼の映画を探っていきたいと思う。

デジカメを使っているのだろうか。色彩美が美しいとも思われた。緑の青々とした森(?)の中で横になる三人の映像、どぎつい色彩美で捉えられるイタリアの風景、そういったものがこの映画の印象的なショットとして残っている。これもまた見逃せないなと思わされた。クリント・イーストウッドの映画の色彩美についてはまた別の角度から留意して観てみたいと思っているのだが、なかなか私は映像の凄味が理解出来ない人間なのでそのあたり困ったところ。名作と呼ばれている彼の映画を芝山幹郎の本を頼りに読み解いて行きたいと思う。

クリント・イーストウッドタカ派的なところがある、と言われているそうだ。なるほど、と思わなくもない。『15時17分、パリ行き』にしてもテロリストが一体どういう目的でなにを狙ってテロを起こしたのかを映画の中だけで描き切ることはしない。実話に基づいているからそのあたりを省略した(つまり、説明しなくても観衆は知っていると思った)……とクリント・イーストウッドが計算したとは思えないので、これは意図的にテロリストを薄っぺらく描いたと捉えるのが妥当なのではないか、と思う。これをどう考えるべきか?

テロを薄っぺらく描くことで、三人の正義漢/ヒーロー的な側面をより一層強烈なものとして炙り出した。それが、上述した「人はいざという時に、自己責任の下において行動出来るか?」という問題として立ち返って来る。クリント・イーストウッドは自分の身は自分で守れ、自分の人生はなにが起ころうと自分で解決しろ、と語る。自分が主体的に「決めて」生きること……と同時に、人生に起こることは必然の側面が強いとも語っている。三人がパリに行くことも成り行きではあったが、なにかに誘われるようだと登場人物に口にさせている。彼らがテロ組織と遭遇するのは必然の産物だったわけだ。

そういうわけで、三人はテロリストを見事に退治する。この映画は、そういうクリント・イーストウッドのメッセージを読み取れる人でないと楽しめない映画ではないか。私はそういう穿った観方で観てしまったので、それなりに楽しい思いはしたのだけれど……?