ブライアン・シンガー/デクスター・フレッチャー『ボヘミアン・ラプソディ』

「光」だな、と思った。この映画は「光」を撮ることに成功している、と。例えばスタンリー・キューブリックバリー・リンドン』やテレンス・マリックの映画、あるいはビクトル・エリセ是枝裕和の映画を思い出した。そんな観衆は私だけだろうが……そんなことは知ったことか!

知られるように、「光」ほど簡単に撮れるものも存在しない。ただカメラを回せば、被写体に降り注ぐ光は簡単に撮れる。しかし、それに「光」が当たっていると自覚させるような撮り方はなかなか出来ない。燦々と降り注ぐ「光」を撮るには被写体とカメラの間にある工夫を必要とさせる。

いや、と反論があるかもしれない。『バリー・リンドン』やテレンス・マリックの映画の「光」は自然光であって、この映画はそうではないという。私自身の手が回っていないのでこの映画の光が何処まで操作されたものなのか分からない。しかし、演出であるにせよこの映画はなによりも被写体を照らす「光」の上品さによって記憶されるべきものであると考えた。そう思えば、この映画のラストがウェンブリー・スタジアムで――つまり、光が燦々と降り注ぐ会場で!――閉じられるのも偶然ではないように思われるから不思議だ。

さて、この映画はクイーンの生誕から彼らが行ったライヴ・エイドでの演奏までを追い掛けた疑似ドキュメンタリー映画なのだけれど、観ながら何処か奇妙な疑問を抱いたこともまた確かだった。それは、バンドのフロントマン(フロントパーソン、と呼ぶべきか)はなにを考えているか、ということだった。

主人公はフレディ・マーキュリー。生まれつき歯並びが他の人間と違うが故に美声を持つ彼はスマイルというロック・バンドに加入する。彼らは地元で地道にツアー活動を行い、バンド名をクイーンに改める。それからあとは説明の必要はないだろう。ひたすら音楽性を高めんと突っ走っていく彼らは、一旦はフレディと他のメンバーたちとの意見の相違でバラバラになってしまうが、ライヴ・エイドを機に結束を再び固める。それに絡めてフレディがゲイであること、エイズに感染してしまう悲劇が綴られる。観ていて居たたまれない気持ちにさせられた。

簡素に言ってしまえば、この映画はアイデンティティの迷走から再確認の物語と言えるかもしれない。フレディという男にとってゲイであることは――今よりももっとゲイへのプレッシャーがキツかった時代を想像してみよう――認めたくない事実だった。だからそれを恥じていたフシが伺える。女性とプラトニック/チャーミングなつき合いを重ねるフレディだが――むろん、実在したフレディがそういう人間だったと見做すつもりはないので――彼は女性と男性、自分自身の本当の姿に目を向けろと諭す男との間でアイデンティティを引き裂かれる。

そしてそれは、バンド内の音楽性の行き違いともリンクする。「ボヘミアン・ラプソディ」を発表した時はバンドは一体だった。レコード会社の無理解にバンドは平然と「NO」を突きつけた。しかし、時代が変わりそれにつれてディスコ・サウンドが優勢となった時に彼らは「NO」を突きつけられない。当時の音楽シーンにおいてディスコはゲイの音楽だったからだ。だから、バンド内での不協和音を隠しながら(一方で、フレディは自分がゲイであることに本格的に目覚めていくのを感じながら)ディスコの波に乗る。このあたりの構成は感動的だ。

そういう、バンドの迷走とフレディの迷走がシンクロするあたりがこの映画の観どころなのではないかと思う。その両者の迷走は、最終的にソロへと転向しようとしていたフレディがバンドに帰っていくことで、そしてライヴ・エイドにもちろんクイーンとして回帰して復活することで鮮やかに再確認される。ここがこの映画のカタルシスだ。自分が誰であれ、ゲイであれなんであれ、ロック・バンドであろうがなんだろうがそれを引き受ける――そういう愚直過ぎるメッセージが、もちろんあのサウンドで鮮やかに伝えられる。これは感動的どころか、至高とすら言えるだろう。

だからこそ、なのだ。この映画の「光」がもっと大切に撮られていたらと思う。例えば一箇所でも、静かに立ち止まって例えばフレディ・マーキュリーの肢体の鮮やかさ、一挙手一投足を魅せる場面があっても良かったのではないか、と……ただ、そうするとこの映画のテンポは損なわれる。立ち止まってしまえば映画は静謐になり、『ボヘミアン・ラプソディ』が備えているダイナミズムは失われてしまうからだ。このあたり、私が欲を言い過ぎなのかもしれない。実に面白い映画だと思う。だからこそ、その矛盾をどうこの映画が乗り越えるか観たかった。その意味で難しい映画だと思わされた。