トラン・アン・ユン『シクロ』

シクロ [DVD]

シクロ [DVD]

 

困った。もしかするとトラン・アン・ユン監督は本作『シクロ』でジャン=リュック・ゴダール的なことをやりたかったのではないかと思われたからだ。そう考えると私もこれまであまり肌が合わず/理解出来ず敬遠して来たゴダールの映画とつき合わなければならないわけで、『勝手にしやがれ』か『気狂いピエロ』かを観直そうかと考えているところだ。こうやって映画によって他の映画と繋がっていくから――例えばドゥニ・ヴィルヌーヴからアンドレイ・タルコフスキーへ、というように!――映画鑑賞は止められない。

スジらしいスジはない。シクロとは自転車タクシーのことである。ヴェトナムの日常が語られる。シクロを運転して日銭を稼ぐどん底の生活を過ごしている主人公と、彼を養っている娼館の女将、彼がほのかに恋していると思しき女や他の娼婦たち、そして彼と敵対する立場にいるヤクザ/ヤンキーたちが過ごす「終わりなき日常」が延々と綴られる。この映画を観ながら、トラン・アン・ユンという人はストーリーを秩序立てて語ることに興味はないのかなと思った。それくらいスジがないのだ。あるのはシーンの連なりである。

ゴダールを連想したのは最後の最後でペンキ塗れになった男の姿とゴダールの映画で――なんだったか覚えていないが――ダイナマイトを己の身に巻きつける男の姿がシンクロしたからだ。そう考えて行くとゴダール抜きにトラン・アン・ユンを語るのは無謀なのかもしれないなと思わされて、改めて個人的な映画的知識/教養のなさを恥じた次第である。いや、黒沢清が好きでありながらゴダールを観て来なかった身なのでとうの昔に恥じなければならないのだけれど……逆に言えば私はトラン・アン・ユンの映画が好きなので、彼の映画を経由してならゴダールを理解出来るのかなと思った。補助線、というやつだ。

トラン・アン・ユンらしさはこの映画でも全開である。ヴェトナムの日常をひたすらべったりリアリティを以て描いている。得意のロングショットや長回しもさほど過激ではないが駆使される。そしてもちろん、ミクロなものへのこだわり……唇の上を這う虫や金魚に向けて撮られるカメラを観逃してはならないだろう。ジャーナリズムを出自とするトラン・アン・ユンならではの、汗の匂いさえ漂って来るかのような映画だ。それにレディオヘッド「クリープ」の使い方もここぞという感じがして、それもまた素晴らしい。

だが、あまりこの映画を好きになれないこともまた事実なのだった。一応ジャンル的にはノワールの部類に入るのだろうこの映画も、トラン・アン・ユンの手に掛かれば「まったり」としたものになってしまう。緊迫感/緊張感がなく、何処か弛緩した印象を受けるのだ。間延びしているかな、という。殺人もこちらを手に汗を握る思いをさせるべく取られるのではなく、肩透かしを食らわせるかのように呆気なく撮られる。いや、しつこく殺人を撮る場面があるのはあるのだけれど、それも何処か退屈さを匂わせるものとなっている。

「まったりした」ノワール……これほど相性の合わない組み合わせもないだろう。だからノワールとしての出来栄えでどうかと言われれば私は首を横に振る(同じ理由で、同監督の『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』もそんなに良い映画だとは私は思わない)。だが、逆に言えばノワールさえもトラン・アン・ユンの手に掛かれば独自の世界に染め上げられてしまうことを知り、彼に求めたいものがますます増えてしまうから困るのだ。「一応」『夏至』や『ノルウェイの森』、そしてなにより愛らしい『青いパパイヤの香り』でドハマりした監督なので余計にそう感じてしまう。

だから、映画的に率直に言えば退屈なノワールであると思う。だが、この映画を観る価値がないとは思わない。ヴェトナムの「リアル」を知りたいならお薦めと言えるだろう。同監督ならそれこそ「まったりした」日常を「まったり」撮った『夏至』の方が買いだと思うが、この映画の「まったり」も捨て難い。いや、この場面は北野武が撮ればどうなるだろうとか「ないものねだり」をしてしまうところがあるので、それがこの映画の弱さでもあると思う。トラン・アン・ユンはヴァイオレンスの人ではない、ということだ。

『シクロ』に出て来る日常は、今でも同じように繰り返されているのだろうか。私はヴェトナムに知人を持たないのでこの映画の「リアル」から十数年経った今はどうなっているのか分からないのだが、もし同じようにどん底に身をやつして暮らしている人たちが居るとしたら悲惨過ぎる。いや、私に関しても同じようなことを思う。私は辛うじて支援者の方と繋がって助けられて生きているから良いものの、そういう幸福な人たちとは違う「リアル」を生きている人も居るのだから。そんな「リアル」を撮れるのが私の知る範囲では是枝裕和監督――彼もまたテレビのドキュメンタリーを出自とする――や山下敦弘監督くらいでしかないというのであれば、それは悲しい話だなと思う。