パブロ・ラライン『NO』

NO (ノー) [DVD]

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私は井の中の蛙並みに観測範囲が狭い人間なのであまりアテにして欲しくないのだけれど、日本は右を見ても左を見てもあまりにも生真面目な人たちばかりだなと思うのは私だけだろうか。いや、賛否は割れるだろうがシールズは健闘したと思う。だが、彼らもまた真面目過ぎるように思った。政治に必要なのはユーモアではないか? 宮台真司が『正義から享楽へ』でリベラルの生真面目さを揶揄しノリで生きる方向性を支持していたことを思い出す。パブロ・ラライン『NO』を観て、改めて政治におけるユーモアについて考えさせられた。

独裁政権下のチリで、とある広告代理店の人物がクライアントの政府から国民総選挙の15分間のコマーシャル番組を作って欲しいと依頼される。ボスは「YES」を、そして主人公は「NO」を代表するものを撮って欲しい、ということだった。つまり主人公は反政府のメッセージを政府のお墨付きを得る形で作ることになってしまったのだった。主人公たちは機転を利かせ、政府に対する「NO」を訴え掛けるメッセージを作り上げる。相当にユーモアのセンスを孕んだものであり、政府はその「NO」に狼狽え始める……というのがスジである、

最初の内はあまり感心しなかった。なんだか素人芝居を観ているような気分になったのだった。俳優に華を感じなかったから、というのが大きい。だが、ドキュメンタリー映画ではないかと感じさせるような(つまり、ナマで起こっていることを記録した素材から作り上げられたものではないか、と錯覚してしまうほどリアルな)映像に次第に引き込まれてしまった。知る限りではケン・ローチの無骨なタッチを彷彿とさせられた。『ケス』や『リフ・ラフ』的な……社会派の映画の系譜にこの映画を位置づけても良さそうだ。

この映画は史実に基づいている。つまり政府に対して突きつけられる「NO」が、最終的には勝ってしまうのだ。チリを変えたのはなんら暴力的なデモでもなければテロリズムでもない。怪我人も出さずましてや死者も出さないユーモアの力によるものだった。「ウィー・アー・ザ・ワールド」が引用されている場面が時代を感じさせて面白く、かつこの監督たちの凝りようを示しているように思う。細部まで生々しいのだ。だから、彼らが流す涙はリアルな涙のようにも思われる。最後の最後、主人公は堪えていた涙を流す。静かにだ。その静かさが感動を呼ぶ。

とはいえ、「NO」だけが圧勝してしまう映画を撮ったのだと誤解されたくはない。「YES」のコマーシャルを観ていると、それはそれで道理に叶っているなと思えなくもないメッセージが含まれていることに気づかされる。つまり、敵をしたたかに描いているのだ。このあたりの考察や作り込みも流石はといったところ。私自身は基本的には反アベの立場なのだけれど、同じような反アベの人たちのヘイトスピーチ(でなくてなんだ?)と対比してこの映画を観ると日本人が敵を揶揄する能力が――これもつまりはユーモアに由来するものだけれど――劣っているなと思わされる。これもパブロ・ラライン率いるスタッフのクレヴァーさの現れだろう。

結果として、敵を正しく捉えかつその敵の裏をかいて、合法的にユーモアを用いて奇想天外に出し抜いた主人公の姿が浮き彫りにされる。ここまでしたたかに計算された映画、なかなか見られないだろう。それでいて頭でっかちではない。史実に裏打ちされているからこそ、という強みもあるのかもしれないので確証は出来ないがこの監督、ケン・ローチとあるいは並ぶ存在になるのではないかと思われた。早速他の映画も観てみたいと思った次第。日本人にもこの程度のクレヴァーさとユーモアが欲しいものだが、ギスギスしたTwitterのタイムラインを追う限りでは無理か。まあ、人のことは言えないのだが。

ひとつ疑問に思うのは、この映画自体はこちらの俗情に媚びたところがない、ということ。言い方を変えればこの映画は「さほど」キャッチーではない、ということだ。センセーショナルに国を動かすダイナミズム、それこそケン・ローチダニー・ボイル的な力動が「さほど」存在しないのだ(「全く」ではないので念の為に)。これをどう捉えるか? この映画もまたユーモアの欠如と捉えるか。つまり生真面目に史実を描いた映画と捉えるか。だが、それならドキュメンタリーで良いはずだ。敢えてフィクションにした理由はなんなのか。それを考えながら観るのも一興かもしれない。

たまたま観た時期が『ボヘミアン・ラプソディ』と被さってしまったからか、「史実をフィクションとして語る」かそれとも「ドキュメンタリーとして語るか」という二者択一の問題が生じるものなのだなと思わされた。それは小説家やルポライターが事実を小説として書くか、それともそのままノンフィクションとして書くかという相違にも通じるものだろう。この映画がフィクションである理由は、やはり主人公の涙に尽きるのではないかとも思った。ヤラセではないホンモノの涙。そこに私は強い衝撃を受けた。いや、良い映画だ。