ドゥニ・ヴィルヌーヴ『複製された男』

複製された男 (日本語、吹替用字幕付き) [DVD]

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難しい映画だ。そして、笑える。これはカフカの世界だなと思ってしまった。映画で言うなら、例えばデヴィッド・フィンチャーを意識したデヴィッド・リンチの世界だ。あるいは、レオス・カラックスが『ホーリー・モーターズ』で垣間見せた境地でもあるように感じられた。

ストーリーはごく簡単。ある歴史の教授が、ふと友人に紹介された映画を観る。そこに自分と瓜二つの俳優が出演していることに気づく。彼はその俳優になりすまして事務所に行くが誰も彼がその俳優でないこと、つまり別人であることを知らない。彼はその俳優のアパートに電話をするが、そこで俳優の妻と落ち合う。妻は教授から掛かってきた電話を俳優のものと思い、芝居を打っているのではないかと訝しむ。妻は事情を調べて教授の姿を見る。そして、俳優も教授と出会う……これがプロットである。ちなみに原題は『ENEMY』、つまり『敵』という意味だ。意味深ではないだろうか。

様々な解釈が成り立つ映画であるだろう。まずは、教授/俳優が出会ったものがドッペルゲンガーであるという説。これを示唆する展開が彼らを待ち受けているのである意味では正解であるとも言えなくもない。あるいは、教授か俳優のいずれかが自分と全く同じ――傷跡まで同じ!――存在が登場するもうひとつの世界に迷い込んでしまったというパラレルワールド説も採れる。あるいは多重人格説も考えられるし、全ては最後に生き残った人物の妄想だったという究極のオチとも採れる。このあたり、なかなかしたたかな映画と言えるだろう。

さて、私はどの説も採らない。私がこの映画を見ながら思ったことはただひとつ、「もし自分が他人になれたら?」というアイデンティティをめぐる問題だった。私は偶然に偶然が重なって存在する。なにしろ億単位の精子卵子の結びつきで生まれて、そして無数の環境の偶然の変化に左右されてこうして生きて来ているのだ。私が私でない人間であったとしてもちっともおかしくない。そう考えれば私が私であることとは奇跡なのだ。では、私ではない私になれたとしたら私はなにをするだろうか? そういうことを考えてしまったのである。

俳優はしがない三文役者に過ぎない。だが、教授はルーティンと化した講義を続ける生活から抜け出し、俳優の妻と寝る。同じことが俳優と教授の妻の間にも起こる。スワッピングというやつだ。彼らは自分ではないけれど自分である自分になりすまし、自分のささやかな欲望を叶える。それが「相手の女と寝る」というところが「女性」にこだわり続けるドゥニ・ヴィルヌーヴらしいと思ってしまった。ドゥニ・ヴィルヌーヴがどれだけ「女性」に執着しているか、この映画でも改めて浮き彫りになったと思ったのだ。そのあたり、ファム・ファタールに誘導されてダメになっていく男を描き続けるデヴィッド・リンチと似ていると思われる。

私自身、私ではない私、私が与えられた職業――それは取りも直さずこれまでコツコツと築いて来た私の人生そのものでもある――から抜け出して自分の思うがままに生きたいと思うことがある。その「もしも」を叶えられるとしたら。「敵」というタイトルにはそういう解釈を許す余地があると思う。「敵」は他でもない、この私なのだ。これまで思うようにいかなかったけれどともあれ生きて来た、今に束縛された私こそが「敵」でありその「敵」を打破せんと男たちは女と寝るのだ。なんとドゥニ・ヴィルヌーヴらしいことか。

『メッセージ』『ブレードランナー2049』『プリズナーズ』等などで常に自分自身とは何者なのか問い掛けて来たドゥニ・ヴィルヌーヴは、この作品でもブレずに愚直にアイデンティティについて考察しているように思われる。従って、彼の中編として……というには90分は長いが、しかしダレることなく語っているのは流石。だが、やはり彼は長編の作家であるようで、この映画もただ伏線をバラ撒くことに腐心していてラストが苦しいと思われる。このエンディングは賛否を呼ぶだろう。「敵」というタイトルを思い起こせば皮肉と言えば言えるのだけれど。

ともあれ、デヴィッド・リンチデヴィッド・フィンチャーにも似たクールな質感を伴った映像美に(あとはデヴィッド・クローネンバーグや『ホーリー・モーターズ』をつけ加えても良い)やられてしまった。サスペンスということで論じるならヒッチコックを引き合いに出すのが正当な映画評論なのだけれど、あいにくその方面の知識はないのでまたいずれ。なんにせよ、何処を切ってもドゥニ・ヴィルヌーヴの作品であり「複製」ではないことは確かだ。『デューン』のリメイク、どういう出来栄えのものになるのだろうか。三時間超えの濃いものであることを願いつつ、この拙い文を〆ることにする。