パブロ・ラライン『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』

ネルーダ 大いなる愛の逃亡者 [DVD]

ネルーダ 大いなる愛の逃亡者 [DVD]

 

前に同じパブロ・ラライン監督の『NO』について言及したことがある。『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』(以下『ネルーダ』と略記)もまた、侮れない映画だと思った。だが、それを何処から書いていけば良いのか難しい。私なりに語れるだけのことを語ってみるつもりだ。

ネルーダとは、第二次世界大戦の時期に活躍したチリの共産党のボスの名前である。終戦後大統領に弾劾されたのが切っ掛けで失脚し、追われる身となる。ネルーダの「逃亡」、詩を書きロマンスに溺れながら明日をも知れぬ毎日を生きる日々は何処で終わるのか……それがプロットである。

ノローグ、という言葉が浮かんだ。この映画は基本的には追われる者としてのネルーダと追う者としての人物であるペルショノーの追跡劇を描いている。ルパン三世と銭形警部みたいな関係、と言えば良いだろうか。ルパン三世がわざと戯れるように銭形警部を挑発するのにも似て、ネルーダはペルショノーを挑発する。手掛かりを残して去る、等など。ネルーダは恐怖の前に沈黙しない。その老獪さは見事だと、私自身も観ながら舌を巻いてしまった。いや、こんな政治家が居たのかと驚かされたのである。チリの情勢には疎いもので……。

で、話はモノローグに飛ぶのだけれど、この映画ではネルーダとペルショノーは対話を交わさない。そこが気になったところである。ネルーダの心中とペルショノーの心中は、あくまで独り言で終わるのだ。それが伝わるとしても、ネルーダの妻や協力者といった第三者を通してでしかない。彼らは直接言葉を交わし合うことは殆どと言って良いほどない。この映画はその意味では、思想犯と政治家が巧みに言葉を交わし合うポリフォニーを持たないのだ(と、ミハイル・バフチンを読んだこともないのに語ってみる)。そこをどう捉えるかが評価の割れ目となるのではないか。

ノローグとして、つまり淡々と人物の心中が吐露されるという展開で進むストーリーは実にスムーズだ。相手に対して問い掛けている言葉は相手に伝わるという保証はない。難しく考える必要はない。自分の部屋でブツブツ独り言を呟くのにも似て、彼らの言葉は閉じているのだ。相手を前にして言葉を発するのではなく、相手が居ないところで発する言葉を呟くのだから。だから、悪く言えば対話のスリルや心理劇という意味での旨味に欠けるきらいがある。いや、かなりサスペンスとしては良い線を行っていると思う。ただ、最後の最後で彼らが出会う場面で言葉が飛び交えばと惜しく思ったのもまた確かだった。

そんなところだろうか。チリの情勢に疎いどころか、南米の政治情勢それ自体を全然知らなかったので、この映画を観ることは勉強になった。とは言え小難しい映画ではない。政治を知らなくとも、普通に逃亡者と追跡者のドラマとして観ることが出来る。ただ、さほど劇的に盛り上がらないことは強調しておいて差し支えないと思う。この映画はむしろ、ペルショノーが「自分はネルーダにしてやられた、脇役的存在なのではないか」という自問自答を切実に行う心理劇なのだと捉えた方が良いかと思う。もちろんネルーダの心理も。自分は正義漢なのか、それともただの傲慢なファシストなのか。

今となっては共産主義の敗北は明らかだからさほど説得力を以て感じられないかもしれないが、共産主義が魅力的だった時代に「共産党員になればあなたと同じように生きられるか、それとも私のまま生きるしかないのか」というようにネルーダに問う女性の願いは切実だったのである。ネルーダがどう答えるかは観てのお楽しみということにしておくが、この切実な問い掛けは時代がどう変わり政治情勢がどう変わろうと常に民衆の側から問われるべきアクチュアルな問いであると言えよう。今のリベラルならなんて言うのかな?

小ぶりでキュッと引き締まった、ところどころ(特に大雪原での追跡劇のあたりで)やや地味ながら盛り上がりもあり観どころも感じさせる秀作だと思った。だからこそ、である。ネルーダとペルショノーのアイデンティティの問題に映画が固執し過ぎて、エンターテイメント性を備えたものとして仕上がらなかったような印象を受ける。それも監督の計算の内なのかもしれないが……ともあれ凡作だとは思わない。興味があるなら観て損はない映画だと思う。なにより題材が良い。どマイナーな政治家(失礼!)を扱って社会派的にアプローチした作品だと思う。

この監督、ナタリー・ポートマンを主役に据えて『ジャッキー/ファースト・レディ 最後の使命』という作品を撮っているそうだ。ナタリー・ポートマンもなかなか売れない女優で、『ブラック・スワン』で汚れた役を見事に演じていたのが印象的なので気になっているところ。ゴダールを観ている一方でこんなどマイナーな監督(これもまた失礼!)を追い掛けている自分もなんだかなという気がするのだけれど、音楽に関しても文学に関しても、どマイナーなものを追い掛けない嗅覚の持ち主を私は信頼しないのでこれで良いのだ! と締め括る。