『黒沢清の全貌』

世界最恐の映画監督 黒沢清の全貌

世界最恐の映画監督 黒沢清の全貌

 

本書を読み、黒沢清という人物は天才なのではないかと思った。もう少し言い方を変えれば――金井美恵子氏風に言えば――「映画に愛された男」ではないか、と……「映画を愛した男」は数多と居るだろう(私もそうありたいと思っている)。だが、「映画に愛された男」となるとなかなか居ないのではないか。黒沢清氏の映画は個人的に(二十年前に『CURE』を観て衝撃を受けて以来)ずっと追い掛けて来たので期待してこの本を手にしたのだけれど、その期待を裏切らないだけの力の入った一冊となっている。まだ観ていない『ダゲレオタイプの女』『散歩する侵略者』を観たくさせられてしまった。あるいは本書がフォローしている『LOFT』や、それ以降の『叫』トウキョウソナタ』といった映画を再見させられたくなったこともまた確かだ。それだけの力が籠もっている一冊だと思った。

と同時に、本書を読み私は観客としての限界を思い知らされたことを記しておかなければならないだろう。黒沢清氏の映画は熱心に観ている方だと思うのだけれど、ここまで詳細に分析されてインタヴュー/対談が重ねられ、そして力の入った批評が書かれているというのだから私のような素人の出る幕などないと言うべきではないか。映画というジャンルに対するハードルの高さを改めて思い知った次第である。だからこそ本書を読み、虚心に学ぶ必要があるのだろう。と同時に、このようなハイレヴェルの対談や論考を呼び寄せてしまう黒沢清という人物はどういう人物なのかと疑ってしまいたくなる。嫌な言い方をすれば「天然」なのではないか、と。「天然」であるが故に分析したがる批評家をして止め処なく語らせたくなる人物なのではないかと。

黒沢清氏は映画評論やエッセイを記す監督であり、氏なりの戦略的思考に基づいて映画を計算して組み立てている。それは言うまでもない事実だろう。だが、戦略を越えたなにかを呼び寄せてしまう才能の持ち主でもあるようだ。それは例えば映画の撮影中不思議なタイミングで吹く風であったり、戯れる小鳥が映ったりするという形で現れる。むろんこれは監督の意図を超えた、グッド・タイミングで起こる出来事だ。だというのであればそのグッド・タイミングを呼び寄せる資質とはなにか……黒沢清氏自身言葉にし辛い現場での創意工夫を、蓮實重彦御大や宮部みゆき氏、宮台真司氏やイザベル・ユペールや篠崎誠氏といった対談相手は引き出す。その言葉に導かれて、黒沢氏は自分が無意識の内にやっていた工夫を言葉に置き換えられて納得するという構図が出来上がっているようだ。

黒沢清氏の飄々とした人柄、気さくで気取らない人間性が本書では――黒沢清氏を知らない人でも馴染めるように――あからさまにされている。そんな黒沢氏の言葉を、悪く言えば蓮實氏や宮台氏は我田引水的に自分の理論に持って行こうとしているかのように感じられる。だが、そんな一方的なぶった斬り方で解説されてもそこに(割り算で割り切れなくて「余り」が出るように)語り尽くせなかった深みが姿を表わすことになる。あるいは、人に依って観方が違うものだという当たり前のことを再確認させられる。やや褒め殺しになってしまっている感が無きにしもあらずなのだが、しかし豪華なゲストを迎えた映画トークはそれだけで読み応えがある。

白眉は阿部和重氏の『岸辺の旅』論だろう。これもまた力の入った論述となっており、溝口健二雨月物語』を引き合いに出して映画の謎に肉薄しようとする様が描かれる。阿部氏の映画評を本格的に読むのはこれが初めてだったのだけれど、着眼の鋭さに唸らされてしまった。阿部氏の本格的な「黒沢清論」が書かれることを楽しみにしている。それくらい本書の論述は理知的で、しかもシネフィルならではの映画の造詣の深さを窺い知ることが出来て面白い。私自身『岸辺の旅』を観返したくなってしまった。逆に言えば『クリーピー』『ダゲレオタイプの女』についてもっと充実した対話を読みたかったところだが、まあヴォリュームの関係でこうなるのは仕方がないかと諦めている。

私は自分を「映画を愛した男」であると語った。だが、「映画」とはとどのつまりなんだろうか。スジを追う楽しみ方もあるのだろう。しかしそれに加えて、映画はこちら側がスクリーンに映ったものを見なければ――能動的にのめり込まなければが――楽しむことが出来ないジャンルに違いない。そこでは美術や小道具、セットの組み立て方に対しても留意が施される。私自身映画のなにを観ていたのだろう……と感じさせることしきりだった。同じ映画を観ても千差万別の反応がある……当たり前といえば当たり前の事実に、私はスジでしか映画を追えない自分の迂闊さをはじさせられたこともまた強調しておく必要があるだろう。

ここまでで長くなってしまった。蓮實重彦氏がこんなにも鋭い着眼点の持ち主だとは……と唖然とさせらえること暫し。いや、繰り返しになるが論客を呼び寄せて自らの整理がついていない言葉を巧く相手に引き出させるということは一種の才能ではないか。そんな仲であったからこそ、私は黒沢清氏の「褒め殺し」に終始するのではなく批判的なインタヴューがあっても良かったのではないかと思った。黒沢清をあたかも時代とシンクロし続ける映画作家として語らんとする蓮實氏を唸らさせるインタヴュー/批評があっても良かったのではないか、と……例えばここに菊地成孔氏を持って来たらどうなるだろう?そんな贅沢を言いながらも、充実した読書が楽しめるのではないかと思ったのだ。そろそろ黒沢/蓮實批判を読みたいと思っている私にとって本書は十分な出来とは言えばかったが、黒沢清氏はこれからも映画界を動揺させる映画を取り続けるだろう。それを早速読みたいと思っているところなのだが、どんなことが起こるのか分からない。まあ、世界はデタラメであること、そこから秩序を取り戻そうとする男・女たちのを再確認しておけば問題はないだろう。黒沢清……今後も何度もやってくれそうな気がする。私も瞠目しながら今後の黒沢氏を見守りたい。