松浦寿輝『青の奇蹟』

青の奇蹟

青の奇蹟

 

松浦寿輝氏の文章に初めて触れたのは、ポール・オースターの詩集『消失』の邦訳を読んだ時のことまで遡る。今から二十年は昔のことになるだろうか。解説文を手掛けて居られたのだけれど、オースターの詩作の特徴を解析しておられたのだ。優れた解説文だったのだけれど、最後の最後にオースターが詩作を捨てて作家となり、「ニューヨーク三部作」などで有名になってしまったことに対して「底の割れた寓話」と言い放ち、オースターをいきなりディスりまくる文章を書いて締め括っていたのが印象的だった。ここまで書いて良いのか……何故ここまで書いてしまうのか。それくらい熱の入ったディスりようにこちらもたじろいでしまったのを覚えている。

その後松浦氏が他でもない詩人から作家となり、小説やエッセイ(いや、「エセー」と書いた方が良いだろうか)や批評や詩作などを幅広く手掛けるようになられたので私も折に触れてそれらの文章に親しんで来た。本書が刊行されたのは十年前のことになる。十年ぶりの再読になったのだが、やはり読んでいて驚かされたのが松浦氏の熱の入った筆致である。氏は中村真一郎福永武彦といった作家を名指しでディスり、堀江敏幸氏や宮沢章夫氏を、『ぼのぼの』を、オクタビオ・パスの評論をこの上なく熱を帯びた筆で賞賛してみせる。この人は正直な人なのだろうな、と思いながら私は松浦氏の文章を読んだ。愚直、と言えば失礼になるだろうか。しかしこの方は嘘はつけない人なのだろうな、と思ったのだ。二枚舌を駆使出来ない人、とでも言うべきか。

本書は松浦寿輝氏の、悪く言ってしまえば「雑文」を収めたものである。氏の専門領域であるフランス文学から映画、美術、一般的な文学に至るまで雑多な内容のエセーが(主に短めのものが中心となって)収録されている。読みながら前述した率直さに対して思わず「良く言ってくれた」と胸が空くような思いを感じた瞬間もあるし、「そこまで書いて大丈夫なのかな……」と心配になったところもある。ネット社会で発表していたら炎上沙汰を起こしていたのではないかという問題発言もないではない。そのあたりの危うさが松浦氏の持ち味なのだろうと思うのだけれど、個人的にはやはりこの愚直さに唯一無二の面白さを感じる反面、お節介だが心配になってもしまったのだった。

今回の再読で面白いなと思ったのは、中上健次をめぐる逸話である。ベルギーでフランス語を流暢に操る松浦氏に向けて中上が喧嘩を売っているとも取れる難癖を吹っ掛ける。中上の言葉は核心を突いたものであるが故に、松浦氏はそこで黙ってしまうのだった。しかし、もしも松浦氏がそこで持ち前の正直さを駆使して中上と喧嘩をしていればどうなっていただろうかと、一読者としては無責任ながら興味を覚えてしまう。両雄一歩も引かない舌戦が繰り広げられていたのではないだろうか。それはそして、外国語でモノを考え語ることの本質をえぐり取った優れた議論になったのではないか、と思うと少々残念に感じられてしまった。

あとは、三人の政治家が並んでテレビに出演している場面を目撃した時の下りもまた面白い。三人がテレビに横一列に並んで座っている姿が映し出されると何故間の抜けた印象を与えてしまうのか。それが松浦氏の優れた着眼によって語られる。その内容について書くと読んでのお楽しみを奪うことになるので書くことはするまい。フロイトまで持ち出してその「三」にまつわるメカニズムを解析するあたり、そこが本書で一番論理が遊んでいる場所のように思われた。裏返せば松浦氏の文章は、師匠の蓮實氏が(別の本の感想でも書いたことがあるが)持っているような「知的遊戯」的側面がそんなにないのだ。だから読むと若干そのあたりが退屈に感じられる。

だから、個人的にはそういう論理が遊び始めるところ、具体的に言えば「好きな」チェスや将棋について、作家について等などについて語っているところが読み応えがあるのではないかと思う。そこではなんの衒いもなく(悪く言えば、我を忘れて)絶賛する松浦氏の身振りが信頼に値するものであると思われるからである。言うまでもないことだが、大好きなものについて語っている時ほど我を忘れてしまう瞬間というのはそうあるものではない。陶酔感が味わえる……その忘我の快楽の中に松浦氏が浸っている時、筆は俄然進みこちらを惹きつける。そんな瞬間が長々と続かずどうしても事務的で手つき良く整理に落ち着いてしまうのは松浦氏のこれもまた知的誠実さを物語るものでもあるのだが、そのあたりで複雑なものを感じてしまう。

とは言え本書を読み、読みたくなった作家の数が増えたこともまた事実である。言うまでもなくヴァレリーマラルメ。川村二郎(『黄昏客思』で川村二郎への畏敬の念を明らかにしていたのだが、この時点でもう川村について書いていたのかと驚かされたのだが)。オクタビオ・パス。ファウルズ。『ぼのぼの』……十年前に読んだ時も確かヴァレリーに関しては読みたいと思い、その後岩波文庫に作品が収録されていたのを知ってはいたのだけれど読まずに来てしまったことはこちらの怠慢と詰られても仕方があるまい。早速読んでみたくなってしまった。しっかりした型にはまった批評も面白いが、これくらいの「エセー」を集めた本をまた松浦氏は出してくれないものだろうか。楽しみに待っているのだけれど……。