ジャン=リュック・ゴダール『女は女である』

女は女である HDリマスター版 [DVD]

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ここ最近、本を読んでいない。ではなにをやっているかというと、ひたすら映画を観ているのだった。ジャン=リュック・ゴダールの映画だ。昔『気狂いピエロ』を、その世評の高さからおっかなびっくり観てみて見事に玉砕した身としては、今ゴダールの世界が楽しめるのが不思議で仕方がない。年を食ったからか、酒を止めたからか、映画を沢山観たからか。そのどれでもないのか。分からないが、まあ、そういう人生もあっても良いのだろうと思う。誰に気兼ねもせずゴダールを楽しめる。こんな幸せなことはないと思う。

女と男のいる舗道』を観て、ゴダールアンナ・カリーナという女優に惚れ込んでいるなと思った。これは四方田犬彦ゴダールと女たち』という本を読んでなんとなく大まかに掴めたことではあったのだけれど、ゴダールが撮るとアンナという女優は、セクシーというのでもなくコケティッシュというのとも違う、微妙な美しさを放つように思う。『前田敦子の映画手帖』を読んだ時に前田敦子ゴダールの作品の中で取り分け好きなものとして『女は女である』を挙げていたのが記憶にあったので、私もこの映画を観てみた。実に面白い作品だと思った。

ゴダールを語れるほど沢山映画を観ていない。もっと掘り下げたい名作は山ほどある。そんな私がこの映画を語るなんて不遜も良いところなのだけれど、それでも語るならこの映画は「ポストモダン」しているなと思った。それは文学における過激な実験/エクスペリエンスを重ねた作品と類似したものを感じた、ということを意味する。高橋源一郎の作品、もっと言えば『さようなら、ギャングたち』が挙げられるのではないか。この映画の痴話喧嘩はそういう類のコミカルさと哀愁を備えているように思う。だが、まずはスジの話だ。

エミールという男が居て、アンジェラという女が居る。エミールは書店で働いている(らしい?)。アンジェラはストリッパーだ(といっても裸身は晒さない)。彼らの痴話喧嘩を描いたのがこの映画……たったそれだけの話だ。それが何故こんなにも面白いのか。その魅力をどう語ったら良いか分からない。思いつくところから挙げてみれば、まずはアンナが着ている/纏っている服の赤色が見事であることが挙げられよう。ゴダールの色彩に関するセンスの確かさは『気狂いピエロ』でも分かっていたつもりだったが、『女は女である』でもずば抜けてセンスが良いことが分かり唸らされてしまった。『女と男のいる舗道』のアンナも赤い服を着ていたのだろうか? モノクロなので分からなかったのだけれど……。

この映画は喜劇である、と大真面目に語られる。もちろん、あのゴダールの言うことだ。鵜呑みにして掛かってはならないだろう。だが、この映画のコミカルさは確かに喜劇なのだ。子作りに励もうと奮闘するアンジェラと、それを(何故か)すげなく断るエミール。彼らが自分たちが如何に相手を愛している/していないかを、例えば本のタイトルを引用する形で喧嘩で表すあたり、これはもう『さようなら、ギャングたち』の世界ではないか! 高橋源一郎が『女は女である』を受容していたのかどうなのか、私には分からないが見事な符合だと思われた。

「第四の壁」、という言葉がある。カメラ目線でこちら側に俳優が語り掛けることを意味する。普通の映画ではそんな「第四の壁」を破るようなことはやらない。観ている観客に「自分たちは観客なのだ」と意識させることになるからだ。野暮ったい印象を与えかねない。だが、この映画では平気でその「第四の壁」を破る試みをする。こちらに目配せをしてアンナとジャン=ポール・ベルモンド、あるいはジャン=クロード・ブリアリは演技を行う。その目配せもチャーミングなのだ。映画館で観たらさぞかし感動的な光景だっただろう。そして当時はこれが斬新であり、今でもなお観るに耐え得る強度を備えている。感服せずには居られない。

とまあ取り留めもなく話は続いてしまったが、個人的には改めてゴダールが「赤」と「青」という色の――そしてもっと言えば、全ての色彩に備わっている――魅力を知悉した人物であることが分かって、感服した次第である。『気狂いピエロ』で知られているゴダールだが、個人的には『女は女である』の方を推したい。ただ、実験的でぶっ飛んでいるその飛び方の過激さ故に、人を選ぶ映画なのかもしれない。そこが痛し痒しといったところ。映画好きならこの映画に選ばれてみるのも悪くないのではないか。そんなことを考えてしまった。

ジャン=リュック・ゴダール。四十代でやっとその強度を把握出来るようになって、これは是非『イメージの本』もチェックしたいと思ったところ。そして、改めて映画が好きで良かったと思うのだ。これから先、この作品をもっと違った角度から語れるようになりたい。