前田敦子『前田敦子の映画手帖』

前田敦子の映画手帖

前田敦子の映画手帖

 

「不思議な本だなあ」。それが本書に対する、率直な感想である。

著者が誰なのかについては書くまでもないだろう。アイドルとして AKB48 のセンターを飾り、同時にそれこそ映画界で「女優」としても活躍して来た「あの」前田敦子氏である。 AKB48 は「卒業」して今は「女優」業をメインに頑張っている。テレビを全くと言っていいほど観ず、アイドルについて興味の全くない私でさえこの程度のことは知っているのだから、前田敦子氏に関しては他の皆さんの方がよっぽど詳しいだろう。そんな前田敦子氏が、帯文によれば「170本超」の「映画」について語ったのが本書である。「私、映画にはまっています。」というのが本書の帯のコピーだが、この本数に偽りはない。相当多忙だろうに……と私なんかは思ってしまうのだけれど、その合間を縫ってこれだけの映画、いや推定するにこの数倍の映画を確実に観ていることは明らかだろう。

私の話で恐縮だが、私的に映画を観るようになってからまだ日が浅い。正確に言えば去年に人に薦められて観た映画(ちなみに曽利文彦『ピンポン』です)が面白かったから映画という広大な荒野を探索してみようと思うようになったのだった。前田敦子氏が映画に「はまっ」たのは私よりも早い。このエッセイ集には 2013 年から『AERA』誌に連載されたコラムが基本的に収められているのだけれど、もちろんそれよりも早い段階から映画に「はまってい」たのだ。

そのせいかやはり私よりも数多くの映画を観ていることが明らかで、読んでいて恥ずかしく思わされた。私の観てない映画ばかり挙げられている。小津安二郎ゴダールヒッチコックといった有名どころから、本書で対談の載っているダーレン・アロノフスキー山下敦弘氏の作品に至るまで、その幅は広い。『ロード・オブ・ザ・リング』や『ハリー・ポッター』シリーズといったファンタジーや SF から恋愛映画まで、新作から古典まで前田氏が幅広くフォローしていることに唸らされる。前田敦子氏が主演した『もらとりあむタマ子』などの作品を手掛けてファンにはお馴染みの映画監督の山下敦弘氏をして、「こんなに映画を見てる女優はいない」と言わしめた(帯文にそう書かれている)ほどである。これは誇張ではないだろう。

だが、「不思議な本だなあ」と思ったのはもちろんその映画の知識の豊富さ(多い時は「1日5本」観たんだとか!)に圧倒されたからでは、必ずしもない。いや、圧倒されたのだけれどそこに原因はない。ここからが難しい話になって来るのだけれど、前田敦子氏の愛する映画について語る筆致には、「私はこれだけ映画を知っている」という「自慢」めいた嫌味さや下品さというものがない。むしろ謙虚だと言える。現存する監督や俳優に関して、それが日本人であろうとなかろうと「さん」づけで呼んでいることがその傍証となるだろう。「ジャン=リュック・ゴダールさん」「アンナ・カリーナさん」……こういう調子で非常に柔らかくエッセイは綴られている。だからなのだろう。「こんな作品を知らなかったのか!」というような、「負け」「劣等感」とでも呼ぶべきネガティヴな感情をさほど感じないのだ。せいぜい「もったいないことをしていたな……」と思う程度である。

本書で挙げられている、私が観ていた数少ない映画であるスタンリー・キューブリック『シャイニング』について、前田敦子氏はこう書く。

(略)行き過ぎた異様さが表現されている、と言えばいいのでしょうか。単なるホラー作品ではないですね。全体的に、怖さよりも不気味さに圧倒される作品でした。

 終わり方も、いろいろな解釈が可能なんです。一緒に見た友だちとも、「こういうこと?」とか感想を言い合う感じ。でもそういうふうに、もやっとしたまま終わる映画、私はけっこう好きです。(p.59)

柔らかさの片鱗が伝わっただろうか。スタンリー・キューブリックについて、そのカメラワークや演出の妙といったテクニカルな部分を語るのでは必ずしもない。そんな専門的なことに前田氏の目は向かわない。それよりももっと、自分が映画を観終えた後に抱いた皮膚感覚や直感といったものに訴え掛けてくるものを、こういう風にごく「自然体」の筆致で表現してみせるのだ。そしてそれが、妙に読んでいてクセになるのである。目新しいことは言ってないな、あっさりし過ぎてるんじゃないかな……良く言えば「自然体」で「淡白」、悪く言えば「薄味」と言っていいだろうこのエッセイ集は、しかしこの私のような擦れっ枯らしの野郎でさえ再読に誘うなにかが確実に存在する。実際に、それほど読むのに骨が折れる本ではないので「再読」の段階に入っている。これは(つまり読んだ「直後」に「再読」してしまうのは)私にしては極めて珍しいことなので、「不思議な本だなあ」と思わされたのだった。言いたいことが伝わっただろうか。

「女優」としての前田敦子氏は、上述した私の映画的無知故に殆どと言っていいほど知らない。先にも挙げた『もらとりあむタマ子』とあとは中田秀夫監督『クロユリ団地』を観た程度なのだけれど、この柔らかさの秘訣はどこにあるのだろうか。まさに「不思議」なのである。基本的にこの本は褒めてばかりなのだけれど、繰り返すが前田氏の映画に対する腰の低い姿勢と、「こんなに映画を知ってるって凄いでしょ」という自己主張や嫌味の全くない柔らかい筆致故に語られている映画を実際に観たくさせるだけの力を備えている。彼女はもしかすると、良い映画の「伝道師」になれるのではないだろうか。例えば、ここでこんな大御所の名前を挙げると大袈裟でそれこそ褒め過ぎに聞こえるかもしれないが、あるいは故・淀川長治氏のような……そんな可能性さえ感じさせるのだ。

少なくとも、私は二本しか観たことがないのでまだ評価には早いが「女優」としての前田敦子氏に関しては私は、良くも悪くも「頑張りが見える」という印象を抱いているのだった。特に和製ホラーである『クロユリ団地』に関して切にそう思った。映画を観るにあたっては演技に関してはそれほど頓着しない私のような観衆でさえ、それ故にそっちの「頑張り」の方に目が行ってしまいハラハラしてしまったという(映画を観ていて俳優を「頑張りが見える」なんてまず思わないですよね?)、私にとってはそんな「女優」の前田敦子氏なのだけれど、これはかなり失礼な言い方になるがあるいは「女優」としてよりも「伝道師」としての資質の方が優れているのでは……と思わせられるのだ。

だがこれ以上「伝道師」としての前田敦子氏を分析するには、残念だがここまででかなり字数を費やしてしまったしここから先のことは語れそうにないのだった。だから、実際にカメラの前に立つ経験を繰り返した「女優」としての持ち味を活かしながら、豊富な知識を舌足らずながら氏なりに丁寧に披露して評価を下してみせた本書について肉迫出来たという手応えは全くない。やはり、繰り返しになるけれど「不思議な本だなあ」という以上の言葉が出て来ない。

ただひとつだけ言えることは、恐らくこの本は売れるだろうし続編も刊行されるだろう。そして、続編が出れば私は必ず買って読む、と断言する。前田氏の筆致にはそんな風にこちらを妙に中毒にさせる、変な言い方になるがある意味では「困った」ところがある。映画の「続編」は大体期待外れに終わるものと相場が決まっているのだけれど、前田氏の『前田敦子の映画手帖』に関しては、読み終えた傍から「続編」を期待してしまう。もっと映画について語って欲しい……そう思ってしまう。こんなこと、繰り返すが「擦れっ枯らし」の読者である私に関してはそうあることではない。

……やはり、ここまでの拙文を読み返してみて思ったが、なんの魅力も語れていない気がする。こればかりは書店の店頭で手に取って読んでみて欲しい、それしかない、と切に思う。コンパクトで、そして紹介されている DVD に関してはジャケットを敢えて手描きのイラストで紹介しているという細かいところにも凝ったこの本の装丁も含めて、実に興味深い一冊だ。「チャーミング」……とはまさにこのことではないか、と。人を映画館やレンタルショップに行かせるだけの魅力は充分に備わっていると考える。決して片手間の仕事なんかではあり得ない、良質の映画に関するエッセイ集にしてガイドブックである……そう思いながら私はまだ、この本について充分に語り尽くせていないような「不思議」さと格闘している始末である。