若林恵『さよなら未来』

ミニコミ/同人誌に手を染めていたことがある。本当に作家になりたかった時のことだ。結局雲散霧消して終わってしまったのだけれど、自分で雑誌を作る喜びというものがあることを僅かながらに知った。文学フリマといったイヴェントが催される理由が分かる気がした。プロフェッショナルな編集者はどんな気持ちで雑誌を作っているのだろう?

若林恵という書き手の存在は全然知らなかった。なにせ男性か女性かさえ分からなかったのだ。タイトルとページ数、そして値段と私がそれなりに好きなミュージシャンの tofubeats が関わっていることを知って買うことに決めたのだった。私はこういう無茶な買い物を良くする。結果から言えば本書はアタリだった。面白い本を読んだ、と思わされたのだ。

若林氏は『WIRED』の元編集長。『WIRED』は読んだことがないのだが、時流/トレンドの最先端を行く、カルチャーを遍く紹介した雑誌であることくらいは察しがつく。そんな雑誌の編集長はどんなポリシーで『WIRED』と、そして読者と関わっているのか。本書はそんな著者の巻頭言やエッセイを纏め上げた一冊である。フクシマを挟んで、その時々の状況に果敢に様々な切り口から発言を行っている。

読みながら唸らされてしまった。私自身はバリバリの文系なので理系の知(識)というものを持ち合わせていなかった。本書では人工知能技術やロボット、バイオ科学といった分野が守備範囲としてフォローされている。最先端の知見を平たい文体で紹介しているのだ。その読み応えはたっぷり。なかなか侮れない一冊だと思った。普通こういう時評は時間が経つと情報の鮮度が落ちて腐ってしまうものだが、そんな臭みは全然感じられない。一編一編の文章を読む度に唸らされてしまった。丁寧な仕事をしている、と思わされたのだ。私自身が詳しいと自負している音楽やその他のポップカルチャーに関しても詳しい。新しい知識人の姿を見た気がした。

ただ、途中のディスクレヴューはどうだろうか。本書にはブックオフで購入した音源のレヴューが収められており、それはそれで読み応えがあるのだけれど時評と関係のない文章なのでなんだか趣味の羅列を読まされているような気になる。脱線して事故っている、とさえ言える。良く言えばヴァラエティに富んだ五目寿司的な本だとも言える反面、悪く言えばそれだけバラバラであるとも言える。楽しめるかどうかはかなり難しいところだろう。ディスクレヴューは手遊びの域を出ていないように思われる。もちろん、私なんぞの駄文よりはクオリティは高いことは認めるに吝かではないにしろ――。

著者の視線は、小津あるいは是枝裕和氏の視点に近い。小市民的な視点、とでも言おうか。インテリの気取りがないのだ。地べたからこちらを見渡している、地に足の着いたアーシーな見解/意見が人肌の温もりを備えてこちらに伝わって来る。それは先述したように平たい。この本から例えば人工知能ビットコイン、あるいはプリンスやデヴィッド・ボウイの音楽へとワンステップ勉強/トリップすることだって充分に可能だ。本書を片手に図書館やリアル書店、あるいは SpotifyApple Music を探索することも悪くない。

悪く言えば、その分過激ではないということになる。水準点は取れているが、極端に尖った書物とは言い難い。でもまあ、炎上マーケティングに必死な論客が数多と居る中で若林恵氏のスタンスは貴重であることは間違いない。私自身は若林氏の「コンテンツ」をめぐる見解に唸らされてしまった。器を作るのに必死なあまり、その中身である音楽やその他の情報の質がなおざりになってしまっている現在に警鐘を鳴らす若林氏のスタンスは、雑誌の最前線で勉強を積み重ねて来た方の意見として読むとなかなか示唆的だ。腐すようなことを書いてしまったが、私自身は読み終えて良かったと思う。この先、二周目・三周目と読み返すこともあるだろうと思う。

2010 年から現在まで。それはつまりフクシマを挟んでフェイクニュースが乱立し「ポスト・トゥルース」、要するになにが真実なのかを見失ってしまい「fact」ではなく「opinion」がのさばる時代となってしまったことを意味する。「fact」なんてどうでも良いとばかりに暴走する大統領や総理大臣と、彼らを引きずり下ろそうとヘイトスピーチを繰り広げる過激な勢力が罵り合いを繰り広げる中、一旦頭を冷やして本書の冷徹にして良い意味で(イヤミではなく)微温的な著者の視点から学ぶべきところは多々あるのではないか。本書はこれからどんどんデタラメになって行くこの世の中をサヴァイヴして行くためのヒントを備えているとも思う。『WIRED』に載っていたから、と言って敬して遠ざけるのはもったいない。もっと広く読まれて、「使われる」べき本だ。私自身ピーター・トゥール『ゼロ・トゥ・ワン』を読みたくさせられてしまった。本書を片手に、さあ勉強だ!