トラン・アン・ユン『エタニティ 永遠の花たちへ』

エタニティ 永遠の花たちへ DVD

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実に歪(いびつ)な映画だな、と思った。いや、奇を衒ったところがあるわけではない。何処から説明したら良いものか難しい。プロットはあってないようなものだ。ある女性の人生が美しいクラシカル・ミュージックに乗せて綴られる、それだけだ。ナレーションに合わせて、淡々とストーリーは進行して行く。

ノローグ的……というのがこの映画を表現するのにしっくり来るのかもしれない。つまり、ひとり語りの印象を受けるのだ。この映画では登場人物の丁々発止の会話は殆どと言って良いほど交わされない。台詞でシチュエーションを語るのではなく、ナレーションが全てを説明する。だから、この映画は非常にフラットな印象を感じさせるのだ。退屈……と評価する人も居られるだろう。私自身、観ていて苦痛じゃなかったかと言われれば黙るしかない。トラン・アン・ユンの映画はそれなりに好きで観て来たつもりだったけれど、なかなかキツいものがあった。

テーマは死生観だろう。死に対して人間はどう愚直に向き合えるか。死はいつも、どんなに準備をしていても誰にも予期出来ない形で訪れる。その死をどう受け容れるか……それは裏返せば生きて来ることをどう受け容れるかということにも繋がるのだろう。私たちは自分の意志で生まれて来たわけではない。気がついたらここに居たのだ。そして死という不条理/苦でいつかこの世から去らなくてはならない。実存主義を持ち出すまでもなく、最大の不条理がここにあると言える。トラン・アン・ユンなりの答えがここにあるのかもしれない、と思わされた。

トラン・アン・ユンのこの映画では、子どもを産むことが肯定的に描かれる。後の世代に命を託して行くこと……それはしかしスムーズには行かない。子どもとの死別を体験するという、これもまた悲劇が何度も語られる。しかし、それを乗り越えて登場人物は生を肯定し、己の人生を全うする。トラン・アン・ユンは、もしかすると自分自身の死を意識してこの映画を撮ったのだろうか? そう思わされた。だから彼の子どもたちにこの映画を捧げたのではないか、と。乏しい映画的知識の中からこの映画と類似する作品を思い浮かべたのだが、それはテレンス・マリックツリー・オブ・ライフ』だった。

どういうことか。『ツリー・オブ・ライフ』でも生を肯定的に描かれていた(テレンス・マリックハイデガーの研究者だったというのは実に興味深い)。難解な印象を感じさせる『ツリー・オブ・ライフ』だが、ハッタリを取り除いてしまえば拍子抜けするほどシンプルな成長の映画であることは分かるだろう。この『エタニティ』もまた、実験的な要素に目を奪われずに観れば素朴に女性の一生を描いた映画であることが分かるはずだ。トラン・アン・ユンは女性的/フェミニンな感受性を備えた作家だと思っていたが、それはこの映画でも上品に結実している。

テレンス・マリックの名前を出してしまったが、映像はテレンス・マリック並みに美しい。これまでのトラン・アン・ユンのどの作品にも増して。スタンリー・キューブリックデヴィッド・フィンチャーと比肩する、と言っても言い過ぎではないだろう。終始スローモーション気味で語られるこの作品は、映像の旨味を理解出来る人には堪らないのではないか。私は映像面の感受性がからっきしないので、あまり楽しめたかというとそうでもなかった。だが、なかなか面白い作品だと思わされた。トラン・アン・ユン、侮れない監督だ。

映像が美しいからこそ、逆に言えばストーリーのフラットさの奇怪さも際立つ。怪作、と言っても構わないのかもしれない。この映画にロマンス映画にありがちな――もしくは端的にフランス映画にある――心理を告白して人を追い詰める会話/ダイアローグを期待してはならない。繰り返しになるが、この映画は人を追い詰める映画ではない。まったりと――トラン・アン・ユンの他の映画がそうであるように――展開して行く。それにノレるかどうか? 人を選ぶ映画だろう。私はこの映画の試みを評価したい。だが、傑作だとも思えない。そこが難しいところだ。

トラン・アン・ユン、なかなか食わせ者ではないだろうか。壮大な叙事詩のような映画を撮ったのだから。これまでの彼の作品に多かれ少なかれあった、日常のミニマム/ミニマルなディテールに目を向けることは『エタニティ』ではさほどない。いや、矛盾するが全てがディテールの塊かなとも思う。ミクロな日常を徹底的に描くことでマクロなスケールの物語を描き出す……やはりここでもテレンス・マリックの作品を類比/連想させられてしまうのだった。トラン・アン・ユンが聞いたら怒るだろうか。私自身またテレンス・マリックの映画を観直す必要があるようだ。