ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

 

私はプロの書評家でもなければ評論家でもない。ただのシロウトの読者に過ぎない。教養もないし、この『カラマーゾフの兄弟』を論じられるほどの能力も持ち合わせていない。だからここはノーガード戦法でこの『カラマーゾフの兄弟』を語ることにしよう。私は四十路を超えてようやくこの大長編を読み終えた。面白かったかというと、なかなか難しいところである。

カラマーゾフの兄弟』は色々な切り口から語ることが出来る。キリスト教を論じた書物として読むことが出来るし、単純にエンターテイメントとして読んでも充分面白い。父殺しの犯人は誰なのかを暴くミステリとして読んでも面白いし、法廷劇として読むことも可能だ。ただ、盛り沢山であることに加えて未完に終わっていることもあってか、何処か私は中途半端に思えてならなかった。これだけの作品にもうひと声求めるのは酷かもしれないが、続編が構想されていたということを知ったので完成された『カラマーゾフの兄弟』を読みたいと思ってしまったのだ。そのあたり、『罪と罰』を読んだ時と同じ感動を得られたかというと困ってしまう。

ドストエフスキーを読むということは――もっとも、数えるほどしか読んでいないのだが――なによりも手に汗を握る体験をするということである。いや、どんな読書もそうなのだと言われればそれまでなのだけれど、私が持っている『罪と罰』の文庫版は汗ばんだ手で読んだせいで表紙が剥げている。濃い体験を味わうこと。あたかも深海の中に潜り込むようなプレッシャーを感じつつ、文字通りフィジカルに束縛されて雁字搦めになった状態で読むということを意味している。『カラマーゾフの兄弟』もそういう小説だ。読みながら、脳がフロー状態になってしまった。文字の中にハマり込んで酔い痴れるような、そんな体験をしてしまったのだ。

スジだけを要約してしまうと、結局は銭金の問題を巡ってひとりの金持ちが殺されて容疑者のうち誰が殺したのかが問い詰められる作品と見做されるだろう。そんな話なら、と思われるかもしれない。ミステリではないか、と。そう、ミステリなのだ。今のミステリ作家ならこんなに手の込んだ作品として『カラマーゾフの兄弟』を書かないに違いない。『罪と罰』にしてもそうだけれど、贅肉が多いのだ。もっとソフィスティケートされた作品としてスマートに作品を削って提出するだろうし、あるいは今の読者にとってはそっちの方が楽しい体験となるとも思われる。だが、その贅肉故の面白さもある。それをどう読むべきなのか。そこで意見が割れるだろう。

個人的に銭金で困っているどん底の精神状態で読んだせいか(こんな個人的な事情を書くと「書評」ではなくなってしまうのだが、知ったことか!)、同じように銭金の因業を生々しく描いたドストエフスキーには感心させられる。ドストエフスキーは『罪と罰』でも貧困に喘ぐ登場人物に人殺しをさせたが、決して清貧の思想を説く作家ではなかった。人間が銭金から逃げられない存在であることを直視し続けた作家だったのである(いや、『白痴』『悪霊』を読めばまた印象は変わるのかもしれないが)。思想も銭金の前には無力である……その現実を直視した作家だからこそ書けた作品なのではないか。そんな気がして来る。

と書いて、いや……と思ってしまった。銭金を超える救済の可能性があると一方ではドストエフスキーは考えていたのかもしれない。それがゾシマ長老の説話にも現れているし「大審問官」という有名な章でも語られる。キリスト教が、あるいは人間が作り出した「神」という存在が眼前にあるパンよりも重要な存在なのかどうかを問い詰めたあたりで現れている。パンを食べなければ人は死ぬが神を信じなくても人は死なない。そんな中にあっても思想は力を備えているのかどうか? なかなかそのあたり難しい。ドストエフスキーはどう考えていたのだろうか。信じたいという気持ちと信じられないという気持ち。両者を併せ持っていたのかもしれない。

自由闊達な会話/弁論が繰り広げられるのがドストエフスキーの面白いところである。脇役が居ないのだ。誰も立派な意見を持っており思想を語る。どの人物に着目して読んでも面白い。私は神を信じていないのでイワンの思想に共感するところ大だったのだが、ゾシマ長老の話に癒されるものをも感じてしまった。アリョーシャの真面目な生き様にも痺れた。そして最後の最後、ドミートリイが犯人とされて裁かれる弁論の場面で「父殺し」とはなにかが問い詰められる。クライマックスとしては見事だ。だがそこに至るまでの仕込み段階が今の読者である私からすると長いので(なにしろ殺人が起こるまでが長い……)、そのあたりヴァランスを崩しているようにも感じられる。

纏めると、思想書として読むことも出来る反面ミステリとして読むことも出来る五目寿司のような作品ということになるだろう。そしてそこで問い詰められている思想にドストエフスキーはハッキリとした結論を下していない。それをどう読むかは読者次第ということになる。良く言えば誰を信じるか読者に多くを委ねた、悪く言えば読者に頼り過ぎた中途半端な作品である……と。だが、世界はハッキリと白黒つけられるものではないのではないか? そう考えるとドストエフスキーのこの長編のモヤモヤとした読後感はそのまま世界をどう解釈するかというこちら側の問題にも繋がって来る。自分の頭で考えて読む作品、というのが正解なのかもしれない。

西成彦編『世界イディッシュ短篇選』

世界イディッシュ短篇選 (岩波文庫)

世界イディッシュ短篇選 (岩波文庫)

 

ユダヤ人が編み出した日常言語イディッシュで書かれた短編集――こう書くと、なんだか本書に対して忌避感を抱かれる方も居られるのではないか。ユダヤ人に対する知識はないし、小難しそうだ……というように。しかし、そんな忌避感で本書が手に取られないというのは非常にもったいない。それほど本書は興味深い一冊なのだから。

とは言え、何処がどう興味深いのかを語るのもまた難しい。西成彦氏に依って編まれたこのアンソロジーはイディッシュで書かれたという一点で繋がっているので、例えばエッセイ風の作品や神話的な掌編、寓話やオーソドックスな短編小説が含まれている。ヴァラエティに富んだ一冊であり、それだけこちらの期待を裏切るような作品集となっているとも読めるだろう。悪く言えばチグハグした印象を拭い去れない。そこをどう読むか、読み手としてこちらが試されている感すら感じさせられる。私自身最初はそれほど乗って読めなかったのだけれど、少しずつ作品が響いて来るように感じさせられた。じわじわと一編一編が甘口の酒のように効いてくると思ったのだ。

ユダヤ人をめぐる歴史について、こちら側はさほど詳しい知識を持っている必要はない。ディアスポラ……そんな難しい単語を知っていなくても本書は楽しめる。ただ、ユダヤ人が流浪の民であること、あるいはヒトラーの狂気の下にホロコーストを経験したことや差別を散々被って来たことは知っておく必要があるだろう。そうした迫害の歴史は民族の「血」というものを否応なく再認識させる。私自身は日本の中でぬくぬくと育って来たのでこれと言った黄色人種差別を被ったこともないし日本人の「血」を感じたこともないのだが、自分のアイデンティティを問い直させられた人々の作品として読むとそのオブセッション/強迫観念が強烈であることが分かる。

ハートウォーミングな短編は載っていない。例えば心温まる短編を求めて本書を読みたいのであれば、それは敬遠しておいた方が良いだろう。どちらかと言えばシニカルな、あるいは残酷なオチが待ち受けた救いのない短編が載っている。逃亡するテロリストの話、クリスマスの七面鳥が主人公の話、あるいはホロコーストと真っ向から取り組んだ話……どの短編もその意味では読者を選ぶところがあるのかもしれない。渋い短編集、という形容がしっくり来るかもしれない。エンターテイメント性に欠けるきらいはあるのだけれど、それでも読ませるのは翻訳者の方々の卓越した語学力故なのか。こなれた翻訳は不自然さを感じさせない。

私が本書を読んで気になったのは、日本語では既に邦訳が何冊も出ているというアイザック・バシェヴィス・シンガー。本書ではイツホク・バシェヴィス・ジンゲルと表記されているが、実はこの作家の短編は池澤夏樹編『世界文学全集』にも収められているそうで(「ギンプルのてんねん」という短編)、知らずに読んでしまった。私の不勉強を恥じた次第である。これを機に読んでみようと思った。他の作家の作品も面白そうなので、図書館を探るなりなんなりして読んでみようかなと思っている。こうして未知の作家と出会えるのも――陳腐な言い方になるが――アンソロジーの醍醐味というものだ。コンパクトでお買い得な一冊と言えるのではないだろうか。

繰り返すが、難しい本などではない。例えば柴田元幸氏が編んだアンソロジーを読むように(岸本佐知子氏でも誰でも良いのだが)、気軽に楽しまれるべき本だと思う。ユダヤ人のことなんて知らない? だったらこの機会に学ぶ、という程度の扱い方で良いのではないだろうか。そして、散々迫害を受けたユダヤ人のこと、上述したアイデンティティの揺さぶられ方を体験して来た民族であることを体得してそれからもう一度読む。それで本書はよりグッと身近に感じられるはずだ。反ユダヤ主義がネット上で――日本だけのトレンドであって欲しいと信じたいが――喧しい現在、本書は読まれるべき価値があると思う。

世界文学に触れる度に、私は自分の知っている世界が狭くてもっとワールドワイドな想像力を身につけなければと感じさせられる。そんな実感を本書でも抱くことが出来た。全ての作品を私は推せない。どれとは言えないが、つまらないものもあった。だがそれも上述した通りこちら側の無知故に「読めてない」可能性も高いので、いずれ時間を置いて再読することが肝要となろう。決して明るい気分になれないし、癒しも感じさせられない。ざらついたリアルをまざまざとこちらに見せつける短編集だ。悪く言えば玉石混交の感もあるが、それでも決して「敬して遠ざける」ような扱いになってしまってはもったいないというもの。より多くの読者の手に届きますように。

J・G・バラード『ミレニアム・ピープル』

どんな音楽がこの小説のサウンドトラックに相応しいだろう……そんな話題から始めるのは到底「書評」ではないだろう。でも、私はプロではないから良いのだ。だから勝手に始めさせて貰おう。例えば、『残虐行為展覧会』というJ・G・バラードの短編集の表題作で繋がるジョイ・ディヴィジョンなんてどうだろう。なんならニュー・オーダーだって良い。初期のデペッシュ・モード(ヴィンス・クラークが在籍していた頃)も捨て難い。レフトフィールドアンダーワールドケミカル・ブラザーズも良いな。バラードは都市の匂いがプンプン漂うのでザ・ジャムザ・クラッシュも良い……なんてことを考えつつ、最終的にプライマル・スクリーム『イーヴル・ヒート』を聴きながら読んだのだった。あるいは、ゴリラズも良いかな、なんて……。

J・G・バラードに対して良い読者ではない。『結晶世界』すら読んでいないのでその時点でお里が知れる、というもの。この長編も「目を通した」という以上の感想が出て来ない。ので、無理矢理音楽の話をマクラに持って来てしまったが、考えてみれば上述したバンドは全部イギリスから現れた存在であることに思い至る(そう言えばレディオヘッド、マンサンやザ・ポリス、マニック・ストリート・プリーチャーズも良いかな……いや、脱線はこのくらいにしておこう)。つまり私にとって、本書に描かれた世界は「イギリス」なのだ。解説文で渡邊利道氏はアメリカの同時多発テロがこの小説に与えた影響を指摘しているが、私はむしろ英国臭い小説、英国でなければ生まれ得なかった小説のように感じられた。

難解な小説かというとさにあらず。ミステリとして読むことが出来る。主人公の妻を殺したのは誰か? という謎を追い掛けたものとして。だが、私はあまりミステリとしての面白さ/旨味を追及する方向で本書を読むことは出来なかった。そういう読み方はこの作品には相応しくないように思ったのだ。あまりミステリとして読むとテクニカルじゃないかな、という……安部公房の小説があまりミステリとして面白くないのと同じように、バラードもミステリに見せかけて実はミステリではない世界を描いているように思われた。バラードが見せるのは(このあたり、安部公房も実は『砂の女』すら読んでいないので怠惰がバレるが)ヴィジョンなのだ。

バラードがこの小説で徹底して描写するのは、テロリズムである。しかもそれはあまり意味を為さないテロだ。大義のために行われるのではなく、徹底して無意味でシュールで「日常」的な……テロが日常と化した世界、と言って良いのかもしれない。このあたり、戦争が「日常」と地続きだった「第三次世界大戦秘史」を連想させるのだけれど、例えば通り魔殺人事件と同次元にまでテロが貶められた(!?)世界。そんな風景を連想してしまう。秋葉原で起こった無差別殺人を連想してみよう。あれも立派な「テロ」ではなかっただろうか。そして私たちはその殺人の徹底した「無意味」に唖然とさせられたのではなかったか。

というようなことを書くと、多分ブロック必至だろう。私も不謹慎なことを書いているのは分かっている。だが、バラードという作家は本来そういう「不謹慎」な作家なのではないか(と、またも不勉強を棚に上げて言ってしまう)。例えばウエルベックの隣にバラードを置いてみるとどうなるだろう? この小説で描かれている「テロ」の「無意味」でフラットな描写はアタマがクラクラしそうになる。あまりにも平板で、ハリウッドで展開される映画のそれのように既視感ありまくりな描写(ウエルベックは実は読んだことがないのだが、だとすれば村上龍五分後の世界』ではどうか?)。全ては情報としてのっぺりと提示されて、こちらの情に訴え掛けるところがない。キネティックで、なるほど大岡昇平を読み込んでいた影響はあるのかなと思わされてしまう。

たまたまこの駄文を書いている今まさに、ある通り魔殺人事件が報道されている。バラードの小説を現実が追い越したのか? それともバラードは現実を予告していたのか? と、「明らかに」関係のないフィクションとノンフィクション、虚構と現実が私の脳内でぶつかり合って(件の通り魔はドストエフスキー罪と罰』を読んでいたというが、まさかJ・G・バラードまでは読んでいなかっただろう)、不思議に「キョトン」とさせられてしまう。この想像を不謹慎だと嗤うなら嘲って欲しい。だが、バラードを現実に引き寄せて読む誘惑を私は抑えられそうにない。その誘惑の強度においてこそバラードは優れた作家なのだな、と思わされる。

今回のレヴュー/駄文ではいつもにも増して「不謹慎」なことを書いてしまった。妄想も甚だしい、と言われるだろう。まさしくその通り、だが、「まじめ」なバラード読解なんて私には出来ない。バラードはそんな「まじめ」な読みに収まらない作家ではないか、と居直ってこの駄文を〆ることにしたい。申し訳ない。

スティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』

自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)

自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)

 

発達障害の世界にスポットライトが浴びせられつつある。例えばアスペルガー症候群ADHD高機能自閉症といった現象だ。各地で NPO 法人が立ち上げられフリースクールなどの取り組みがニュースとなっている。自分の子どもは発達障害なのではないか……そんな風潮を「発達障害バブル」と呼ぶ論客も居る。あまりに数が多過ぎるからだ。安直な診断が為されているのではないか、という疑問の声もある。だが、なにはともあれ発達障害自体が見直されて生きにくい思いをしている人たちが生きやすくなるのは良いことだし、彼らが生み出す独創的な発想やアイデアが有意義なものをもたらすことも確かだろう。だが、そもそも発達障害とはなんなのか? その線引きは何処で為されるべきものなのか?

ティーブ・シルバーマンに依る本書は大著である。講談社ブルーバックスから出版されているのだけれど、ページ数は六百ページを超える。かなりの分厚さだ。読み応えはたっぷりある。中身もなかなか充実している。発達障害を含む特殊な特性である「自閉症」に注目されてその歴史を辿った本書はこれまで私自身(アスペルガー症候群と診断済み)さえも知らなかった有意義な知見をこちらに与えてくれる。しかも最高にスリリングな形で、分かりやすく丁寧にだ。あのオリヴァー・サックスが序文を書いている、と書けば本書に親近感を覚える読者も多いのではないだろうか。「自閉症」の真相に肉薄する試みとは、ではどんなものなのか?

基礎的にはふたりの科学者が同時期に「自閉症」に注目したことを軸として語られる(むろん、それ以前にも「自閉症」はそうと呼ばれないだけで実在していたのだけれど)。ひとりはハンス・アスペルガー。彼については名前は既に有名過ぎるほど有名だろう。もうひとりはレオ・カナー。彼もまた子どもの「自閉症」に着目した人物である。だが、彼らの辿った運命は対照的なものだった。ハンス・アスペルガーオーストリアで研究を重ね、子どもたちの「自閉症」に注目した。彼はナチス・ドイツの脅威に屈しそうになりつつも、今でもなお注目に値する「自閉症スペクトラム」の基礎的なアイデアを――むろん、アスペルガー本人がそうとは名付けはしなかったにせよ――生み出した。だが、彼の論文はドイツ語から翻訳されることなく、ナチスの滅亡と共に眠ってしまった。

もうひとりのレオ・カナーはアメリカで「自閉症」に注目した。カナー自身もアスペルガーの研究成果については把握していたが、自説に都合が悪いからなのか引用することはしなかった。カナーは「自閉症」を狭く捉えていた。子どもの「自閉症」にのみ着目し、その後の追跡調査を行わなかった。だから「自閉症」が(なんなら発達障害が、と言っても良いだろうが)あたかも子どもに特有の現象であるかのように書き、その「自閉症」が生み出された背景には「毒親」の存在があると語った。つまり、育て方が悪かったから「自閉症」になったのだというわけだ。この説が後々まで悪影響を及ぼすことになる。カナーは子どもの「自閉症」の概念をある程度まで解き明かした功績をシルバーマンは認めてはいるが、書きぶりはかなり辛辣だ。

毒親」によって「自閉症」が誕生する……発達障害というワケの分からない現象にはそうした原因があった方が親も救われるのかもしれない。逆に言えば、親に自責の念ばかりを植えつける結果となってしまう。そんな中、アスペルガーの業績はドイツ語が出来る研究者に依って掘り起こされ、やがて再評価される。人間をそんなに簡単に二分化出来るものなのか? もっとグラデーションがあるはずなのではないか……そういった考え方が今では脳科学の世界では常識と化している。診断基準である DSM も基礎的には IV からアスペルガーの業績が「症候群」として取り入れられることになった。これに加えて映画『レインマン』が話題となる。大人の「自閉症」を見事に演じたダスティン・ホフマンの存在が「自閉症」をポピュラーなものにするのだ。かくして今の発達障害ブームへと繋がって行く。

それにしても、と本書を読みながら思う。如何に現代が発達障害者となって生きやすい世界になったか……私自身が子どもの頃はそんな言葉が日本ではまだポピュラーではなかったので、私自身は単に「個性的」「変わってる」子として育てられた。親自身自分の教育方針を疑いながら育てたと私に語ってくれた。今では巷間では「アスペ」という言葉が屈託なく使われて(蔑称としてならまだしも、若い当事者までもが自称している!)彼らは世界最大規模のマイノリティとして独自の文化を生み出している。シリコンバレーで働く人々は多かれ少なかれ「自閉症」の資質を備えているとまで言われている。逆に言えば過去に「自閉症」の人々がどのような虐待を受けたかもつぶさに語られている。読みながらいたたまれなくなってしまった。

字数も良いところまで来たのでこのあたりで切り上げよう。本書を読めばこぼれ話として、例えば「サイエンス・フィクション」というアイデアを生み出し独自のマニアックな文化を築いたのも「自閉症」の人間であることが分かる。インターネットのアイデアも「自閉症」の人物が先取りしていたとも書かれている。やや「自閉症」の才能を過大評価している――つまり、彼らの持つ能力の内秀でた部分だけを拾い出している――ことが凡才である私としては気になるが、翻訳も極めて読みやすく説得力を備えている。本書が有意義な「叩き台」になって生産的に「自閉症」(発達障害を含む)を考える素材になることを私は願っている。

トラン・アン・ユン『エタニティ 永遠の花たちへ』

エタニティ 永遠の花たちへ DVD

エタニティ 永遠の花たちへ DVD

 

実に歪(いびつ)な映画だな、と思った。いや、奇を衒ったところがあるわけではない。何処から説明したら良いものか難しい。プロットはあってないようなものだ。ある女性の人生が美しいクラシカル・ミュージックに乗せて綴られる、それだけだ。ナレーションに合わせて、淡々とストーリーは進行して行く。

ノローグ的……というのがこの映画を表現するのにしっくり来るのかもしれない。つまり、ひとり語りの印象を受けるのだ。この映画では登場人物の丁々発止の会話は殆どと言って良いほど交わされない。台詞でシチュエーションを語るのではなく、ナレーションが全てを説明する。だから、この映画は非常にフラットな印象を感じさせるのだ。退屈……と評価する人も居られるだろう。私自身、観ていて苦痛じゃなかったかと言われれば黙るしかない。トラン・アン・ユンの映画はそれなりに好きで観て来たつもりだったけれど、なかなかキツいものがあった。

テーマは死生観だろう。死に対して人間はどう愚直に向き合えるか。死はいつも、どんなに準備をしていても誰にも予期出来ない形で訪れる。その死をどう受け容れるか……それは裏返せば生きて来ることをどう受け容れるかということにも繋がるのだろう。私たちは自分の意志で生まれて来たわけではない。気がついたらここに居たのだ。そして死という不条理/苦でいつかこの世から去らなくてはならない。実存主義を持ち出すまでもなく、最大の不条理がここにあると言える。トラン・アン・ユンなりの答えがここにあるのかもしれない、と思わされた。

トラン・アン・ユンのこの映画では、子どもを産むことが肯定的に描かれる。後の世代に命を託して行くこと……それはしかしスムーズには行かない。子どもとの死別を体験するという、これもまた悲劇が何度も語られる。しかし、それを乗り越えて登場人物は生を肯定し、己の人生を全うする。トラン・アン・ユンは、もしかすると自分自身の死を意識してこの映画を撮ったのだろうか? そう思わされた。だから彼の子どもたちにこの映画を捧げたのではないか、と。乏しい映画的知識の中からこの映画と類似する作品を思い浮かべたのだが、それはテレンス・マリックツリー・オブ・ライフ』だった。

どういうことか。『ツリー・オブ・ライフ』でも生を肯定的に描かれていた(テレンス・マリックハイデガーの研究者だったというのは実に興味深い)。難解な印象を感じさせる『ツリー・オブ・ライフ』だが、ハッタリを取り除いてしまえば拍子抜けするほどシンプルな成長の映画であることは分かるだろう。この『エタニティ』もまた、実験的な要素に目を奪われずに観れば素朴に女性の一生を描いた映画であることが分かるはずだ。トラン・アン・ユンは女性的/フェミニンな感受性を備えた作家だと思っていたが、それはこの映画でも上品に結実している。

テレンス・マリックの名前を出してしまったが、映像はテレンス・マリック並みに美しい。これまでのトラン・アン・ユンのどの作品にも増して。スタンリー・キューブリックデヴィッド・フィンチャーと比肩する、と言っても言い過ぎではないだろう。終始スローモーション気味で語られるこの作品は、映像の旨味を理解出来る人には堪らないのではないか。私は映像面の感受性がからっきしないので、あまり楽しめたかというとそうでもなかった。だが、なかなか面白い作品だと思わされた。トラン・アン・ユン、侮れない監督だ。

映像が美しいからこそ、逆に言えばストーリーのフラットさの奇怪さも際立つ。怪作、と言っても構わないのかもしれない。この映画にロマンス映画にありがちな――もしくは端的にフランス映画にある――心理を告白して人を追い詰める会話/ダイアローグを期待してはならない。繰り返しになるが、この映画は人を追い詰める映画ではない。まったりと――トラン・アン・ユンの他の映画がそうであるように――展開して行く。それにノレるかどうか? 人を選ぶ映画だろう。私はこの映画の試みを評価したい。だが、傑作だとも思えない。そこが難しいところだ。

トラン・アン・ユン、なかなか食わせ者ではないだろうか。壮大な叙事詩のような映画を撮ったのだから。これまでの彼の作品に多かれ少なかれあった、日常のミニマム/ミニマルなディテールに目を向けることは『エタニティ』ではさほどない。いや、矛盾するが全てがディテールの塊かなとも思う。ミクロな日常を徹底的に描くことでマクロなスケールの物語を描き出す……やはりここでもテレンス・マリックの作品を類比/連想させられてしまうのだった。トラン・アン・ユンが聞いたら怒るだろうか。私自身またテレンス・マリックの映画を観直す必要があるようだ。

睡蓮みどり『溺れた女』

溺れた女: 渇愛的偏愛映画論 (フィギュール彩)

溺れた女: 渇愛的偏愛映画論 (フィギュール彩)

 

真摯な、という言葉がしっくり来る。本書を読んでいてまず思ったのはそういうことだ。この本はなによりも、映画を好きで好きで仕方がない人が書いた本なのだ、ということ。そういうパッションの強度にまず心を掴まれたのだった。そういうパッションは届くものだ。少なくとも私には届いた。前に紹介した真魚八重子氏の著作同様、この本は映画がないと生きていけない人が書いた本なのだと感じたのだった。

睡蓮みどり氏は私よりひと回り年下だが、映画に関する造詣は深く若いながらも貫禄のある筆致で近年の映画について語ってみせる。それでいて映画の勉強量を自慢する類のものとして本書は成り立っていない。そんなスノッブで器用な立ち回りを演じられるような人ではないだろう。失礼な言い方になるが、睡蓮氏は何処までも不器用だ。情報を披露するのではなく、その映画を個人的なインパクトとしてどう受け留めたか。それが綴られるのである。だから悪く言ってしまえば本書は自分語りの暑苦しい本である。だが、それが「悪い」なんて誰に言えるだろう。私はその自分語りが充分に読ませる強度を孕んでいると思わされた。睡蓮氏は小説も書いているそうだが、それも読んでみたいと思った。

読みながら、私自身の不勉強を痛感させられたのが正直なところだった。『世界にひとつのプレイブック』、『ニンフォマニアック』、あるいはグザヴィエ・ドラン……観ていない映画が沢山ある。そして、辛うじて観ていた例えば『永い言い訳』に関しても「こんな観方があったんだ」と唸らされる分析を施している。映画批評と言えば蓮實重彦氏が居たり町山智浩氏が居たりするわけだが、どちらの系譜にも位置しない、徒手空拳で映画とガチンコ勝負で挑んでいる姿が見て取れる。これもまた失礼な言い方になるが、ボキャブラリーを必死に駆使して白紙の状態から言いたいことを捻り出している姿が生々しく迫り上がって来るのである。

御本人が読まれれば気分を害されるだろうことを、敢えて書こう。睡蓮氏はアカデミックな意味での頭の良さとは無縁だろう。むしろストリートワイズというか、地頭の良さで勝負してみせる。学校でお勉強しました、という意味での賢さではなく映画を個人的な体験として咀嚼してそこから拙いなりに(失礼!)言葉を必死に吐き出している。だからまた悪く言えば本書は芸がない。遊び心というものがそれほどない。パッションを頼りに、思ったことを切実に書いている。その不器用さ、拙さ(むろん、先述したように映画に対する情熱と勉強量はかなりのものだが)がこちらにイヤミなく届いて来るのである。これは著者の美点だろう。

睡蓮氏の存在は知らなかった。たまたまジュンク堂書店で棚の中に一冊本書が刺さっているのを手に取り、選ばれているラインナップが私の興味を惹くものだったので購入したのだった。読みながら、何度も書いているが睡蓮氏の真摯な筆致に唸らされたのだった。思わぬ掘り出し物を得たと思った。あまり読まれている本ではないようだが、前にも書いたが真魚八重子氏の著作が好きな方ならハマるのではないか。『映画なしでは生きられない』『映画系女子がゆく!』といった著作と同程度には読まれるに値する本である、と断言しても良い。この著者の次作を(森下くるみ氏との共著らしいが)早くも楽しみにしている。

私自身本書を読み、観たい映画が増えてしまった。まずなによりもグザヴィエ・ドランを観たいと思ってしまったのだった。恥ずかしながら未見なので……ここまで映画に対して情熱を注げる著者を羨ましく思ってしまった。私はなにかをそこまで愛することが出来ているだろうか……こうしたシロウトのレヴューを書いている身として、本に対する愛情は持っているつもりだが睡蓮氏のパッションを目にして改めて恥じ入っている次第である。この著者はまだ若い。これから伸びて行く可能性は大いにある。また断言する。五年後にはこの著者の名前は無視し得ないものとして知られることになるだろう。逆に言えば、チェックするなら今のうちに、だ。「買い」と言えるだろう。

私自身映画の世界に入ってまだまだ日が浅いので、そんなシロウトの私にも届く言葉で語る睡蓮氏の言葉に誘われてもっと映画を観ようと思わされた。まずは借りっぱなしの『0.5ミリ』『メッセージ』を観てみようか……日本の映画も海外の映画も満遍なく(ただ SF 映画が少ないのが気になるが)観ている睡蓮氏のフォローの領域は広い。どんな映画にも偏見を持たず、繰り返しになるがガチで勝負している姿勢は立派だ。権威に頼ることなく、ちきりん氏の言葉を借りれば「自分のアタマで考えた」レヴューは、愛好家(また悪く響くかもしれないが、真の意味での「アマチュア」)の筆致として届く。いや思わぬところで凄い本を見つけてしまったものだ。本書がこの駄文を介して多くの方に届きますように、と祈っている。