ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

 

私はプロの書評家でもなければ評論家でもない。ただのシロウトの読者に過ぎない。教養もないし、この『カラマーゾフの兄弟』を論じられるほどの能力も持ち合わせていない。だからここはノーガード戦法でこの『カラマーゾフの兄弟』を語ることにしよう。私は四十路を超えてようやくこの大長編を読み終えた。面白かったかというと、なかなか難しいところである。

カラマーゾフの兄弟』は色々な切り口から語ることが出来る。キリスト教を論じた書物として読むことが出来るし、単純にエンターテイメントとして読んでも充分面白い。父殺しの犯人は誰なのかを暴くミステリとして読んでも面白いし、法廷劇として読むことも可能だ。ただ、盛り沢山であることに加えて未完に終わっていることもあってか、何処か私は中途半端に思えてならなかった。これだけの作品にもうひと声求めるのは酷かもしれないが、続編が構想されていたということを知ったので完成された『カラマーゾフの兄弟』を読みたいと思ってしまったのだ。そのあたり、『罪と罰』を読んだ時と同じ感動を得られたかというと困ってしまう。

ドストエフスキーを読むということは――もっとも、数えるほどしか読んでいないのだが――なによりも手に汗を握る体験をするということである。いや、どんな読書もそうなのだと言われればそれまでなのだけれど、私が持っている『罪と罰』の文庫版は汗ばんだ手で読んだせいで表紙が剥げている。濃い体験を味わうこと。あたかも深海の中に潜り込むようなプレッシャーを感じつつ、文字通りフィジカルに束縛されて雁字搦めになった状態で読むということを意味している。『カラマーゾフの兄弟』もそういう小説だ。読みながら、脳がフロー状態になってしまった。文字の中にハマり込んで酔い痴れるような、そんな体験をしてしまったのだ。

スジだけを要約してしまうと、結局は銭金の問題を巡ってひとりの金持ちが殺されて容疑者のうち誰が殺したのかが問い詰められる作品と見做されるだろう。そんな話なら、と思われるかもしれない。ミステリではないか、と。そう、ミステリなのだ。今のミステリ作家ならこんなに手の込んだ作品として『カラマーゾフの兄弟』を書かないに違いない。『罪と罰』にしてもそうだけれど、贅肉が多いのだ。もっとソフィスティケートされた作品としてスマートに作品を削って提出するだろうし、あるいは今の読者にとってはそっちの方が楽しい体験となるとも思われる。だが、その贅肉故の面白さもある。それをどう読むべきなのか。そこで意見が割れるだろう。

個人的に銭金で困っているどん底の精神状態で読んだせいか(こんな個人的な事情を書くと「書評」ではなくなってしまうのだが、知ったことか!)、同じように銭金の因業を生々しく描いたドストエフスキーには感心させられる。ドストエフスキーは『罪と罰』でも貧困に喘ぐ登場人物に人殺しをさせたが、決して清貧の思想を説く作家ではなかった。人間が銭金から逃げられない存在であることを直視し続けた作家だったのである(いや、『白痴』『悪霊』を読めばまた印象は変わるのかもしれないが)。思想も銭金の前には無力である……その現実を直視した作家だからこそ書けた作品なのではないか。そんな気がして来る。

と書いて、いや……と思ってしまった。銭金を超える救済の可能性があると一方ではドストエフスキーは考えていたのかもしれない。それがゾシマ長老の説話にも現れているし「大審問官」という有名な章でも語られる。キリスト教が、あるいは人間が作り出した「神」という存在が眼前にあるパンよりも重要な存在なのかどうかを問い詰めたあたりで現れている。パンを食べなければ人は死ぬが神を信じなくても人は死なない。そんな中にあっても思想は力を備えているのかどうか? なかなかそのあたり難しい。ドストエフスキーはどう考えていたのだろうか。信じたいという気持ちと信じられないという気持ち。両者を併せ持っていたのかもしれない。

自由闊達な会話/弁論が繰り広げられるのがドストエフスキーの面白いところである。脇役が居ないのだ。誰も立派な意見を持っており思想を語る。どの人物に着目して読んでも面白い。私は神を信じていないのでイワンの思想に共感するところ大だったのだが、ゾシマ長老の話に癒されるものをも感じてしまった。アリョーシャの真面目な生き様にも痺れた。そして最後の最後、ドミートリイが犯人とされて裁かれる弁論の場面で「父殺し」とはなにかが問い詰められる。クライマックスとしては見事だ。だがそこに至るまでの仕込み段階が今の読者である私からすると長いので(なにしろ殺人が起こるまでが長い……)、そのあたりヴァランスを崩しているようにも感じられる。

纏めると、思想書として読むことも出来る反面ミステリとして読むことも出来る五目寿司のような作品ということになるだろう。そしてそこで問い詰められている思想にドストエフスキーはハッキリとした結論を下していない。それをどう読むかは読者次第ということになる。良く言えば誰を信じるか読者に多くを委ねた、悪く言えば読者に頼り過ぎた中途半端な作品である……と。だが、世界はハッキリと白黒つけられるものではないのではないか? そう考えるとドストエフスキーのこの長編のモヤモヤとした読後感はそのまま世界をどう解釈するかというこちら側の問題にも繋がって来る。自分の頭で考えて読む作品、というのが正解なのかもしれない。