ジム・ジャームッシュ『パターソン』

パターソン [DVD]

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法月綸太郎に倣って、この映画を「二の喜劇」と名づけてみるのはどうだろうか……観ながらそんなことを考えていた。「二」。例えばこの映画は、地名としてのパターソン「と」人名としてのパターソンをめぐる映画として受け取ることが出来る。あるいは男「と」女をめぐる映画。一週間にわたって繰り広げられるのは、パターソンという詩人にしてバス運転手の男「と」、ケーキを焼きギターを弾く女をめぐるドラマである(と書いて、ここに「詩人『と』バス運転手」という新たな二項対立を見出せることに気がついた)。

あるいは、映画に登場するのがアボット「と」コステロであることに留意されたい。もしくはロミオ「と」ジュリエットも重要な素材として登場する。女性が焼くケーキや塗るカーテン、弾くギターが白「と」黒であることもまた無視し得ない(このあたり、モノクローム映画からキャリアをスタートさせたジム・ジャームッシュのシブいこだわりが垣間見えて面白い)。もしくは律儀に反復されるのが昼「と」夜のドラマであることも見逃せない。

そう考えてみれば、この詩人にしてバス運転手のパターソンがスマホを持たない理由も容易く見出すことが出来る。パターソンはノートに詩を書かなければならなかったのだ。何故か? 単純な話である。ノートは左のページ「と」右のページで構成されている。ここにも「二」を見出だせる。左のページが空白であり右のページが文字で埋め尽くされる、この「二」を演出させるためにジム・ジャームッシュはノートを小道具として持ち出したのだ。スマホは「一」の装置である。画面は「一」で構成されており、そこに「二」など存在しない。

そして、言うまでもなくこの映画には見過ごし難い「二」が登場する。双子である。バスに乗る乗客として、あるいは恋人たちふたりが夢想する理想の子どもとして「二」の関係を孕んだ双子が現れるのだ。こんなところにも凝ってみせたのか、と唸らざるを得ない。いや、ジャームッシュ自身がここまで計算したとは考えられないとも反論されるかもしれない。だが、この映画がここまで図式的に「二」を露呈させていることを指摘せずして、この映画のなにを味わえと言うのだろうか。

チェスもまた「二」を彩る素材として登場する。パターソンの行きつけのバーの店主が凝るのが「二」者が対立するチェスであること、相手「と」自分が居てこそ成り立つ競技であることも見逃し得ない。いや、店主は自分ひとりでチェスを指すではないかと反論もあろう。だが、ならば店主は自分の中に「二」を分裂させて立ち現れるのだとこちらから異論を呈すことにしたい。店主はパターソンが詩人にしてバス運転手という「二」つの顔を持つのと同じように、自分「と」相手の「二」つの顔を備えるのだ。

そして、生「と」死。この映画では登場人物が銃を持ち出す。映画が死という際どいスリルに晒される場面である。だが、その銃はフェイクである。だから誰も死なない。ここにおいて映画は死から回復され、生へとそのベクトルを転換させることになる。ここでは同時に、偽物「と」本物の銃という新たな二項対立をも露呈させていることを指摘するのは流石に言葉遊びが過ぎようか? 言い出せば映画の内部において登場人物がホラー映画を見る、映画「と」現実という「二」が際立つことも指摘出来るのだが……。

いずれにせよ映画は様々な「二」に、言い換えれば様々な「と(and)」に埋め尽くされていることを確認出来るはずだ。映画において事故が起きた時にスマホが現れるのは単なる思いつきではあり得ない。事故とは非日常、あってはならないことでありそのあってはならない出来事が起きた時に、「二」を食い破る異質な存在が登場しなければならないのは必須だからだ。逆に言えば、日常において「二」は律儀に守られなければならない。だから日常が現れれば、スマホは登場しなくなる。

左へ行こうとするパターソン「と」右へ行こうとする飼い犬。あるいは、ベンチに座る日本人観光客「と」パターソン……映画はこうして「と」を踏襲する。それは最後の最後まで変わることはない。ネタを割れば、詩を書き留めていたノートは一旦飼い犬によって食い破られる。ここで「二」あるいは「と」は終わってしまったかのように映る。だから、観光客に対してパターソンが自分が詩人であることを否定するのは当然なのだ。「二」あるいは「と」を演出するノートを持たないのだから!

だが、その「二」あるいは「と」を構成させる新たなものとして観光客はパターソンに新品同様の白紙のノートを渡す(観光客は、縦書きの左右に――左「と」右に――開かれた本を持っていないといけない。ここがジャームッシュの聡明なところだ。彼は iPad など持たせないのである!)。だから秩序は回復される。この映画が落ち着かせられるエンディング、なんとも言えない余韻をあとに残すのはそのせいだ。映画が律儀に「二」あるいは「と」で締め括られたから……優雅な構造を備えていたからなのである。

ところで、ジャームッシュはこの映画で登場人物に煙草を吸わせなかった。これもまた偶然ではあり得まい。煙草は単独で存在する「一」のものであり、したがって愛煙家のジャームッシュと言えども「二」を食い破る「一」本の煙草を持たせることは出来なかったのだ。ここにジャームッシュの誠実さと勇気を見出だせる。拍手を送りたい逸品として感じられる。悪く言えばそれだけあざとく、日和った作品ともなるだろうが。果たして、あなたの評価は?