トラン・アン・ユン『ノルウェイの森』

ノルウェイの森 [DVD]
 

村上春樹は言うまでもなく日本を代表する作家だが、彼の作品の映像化はそれほど頻繁には為されていない。決して寡作な作家というわけではない彼の作品が、しかし映画化やドラマ化されることが少ないというのは不思議ではないだろうか。かつての村上春樹は自身の映画化に関して、特に大ベストセラーである『ノルウェイの森』のそれに関しては「スタンリー・キューブリックがオファーして来ても断る」と語っていたとかいう話を何処かで聞いたことがある(確か『世界は村上春樹をどう読むか (文春文庫)』でだったと思う)。そんな彼が実写化を引き受けたのみならず、ちょい役として登場さえしているのがこのトラン・アン・ユン『ノルウェイの森』だ。

ストーリーは有名過ぎるほど有名な話なので今更説明するまでもないだろうが、青春をリアリティを以て描いた作品である。主人公のワタナベは高校時代友人のキズキ、そしてそのガールフレンドの直子と親しくしていた。しかしキズキが謎の自殺を遂げる。ワタナベは逃げるように、高校卒業後東京のとある大学に――村上自身も通っていた早稲田と思われる――進学する。だがワタナベの前にふと直子が現れる。直子の二十歳の誕生日、雨の降る中直子のアパートの一室でふたりは結ばれる。だが、直子はワタナベの前から消えてとあるサナトリウムに引っ越す。そんなワタナベの前に緑という女性が現れて……これが大まかなプロットである。

トラン・アン・ユンは好きな監督なので、この作品も興味深く鑑賞することが出来た。今回が四度目くらいの鑑賞になるのだけれど、最初に観た時は違和感を覚えてしまったことを思い出す。この映画は、例えば山下敦弘マイ・バック・ページ』がそうであるようには全共闘――絓秀実言うところの「68年革命」――を描いていない、と。それは基本的には今回の鑑賞でも変わりはない。あの波乱の時代の風俗を描くことにはこの作品は向かっていない。むしろあの時代の臭みを消して、誰もが楽しめる映画へと普遍的に仕立て上げたという印象を感じる。

トラン・アン・ユンは『青いパパイヤの香り』以後一貫して自然を描くことを試みて来たように思っている。それはこの映画でも変わりはない。『青いパパイヤの香り』で魅力的だった果物や野菜はこの映画における蜘蛛、あるいはプールの水やサナトリウムを取り巻く大自然へと繋がっているように思われる。それが面白く思われた。原色を大胆に使うことに長けているこの監督ならではの、赤い公衆電話が映された後に緑色の大自然を映したショットが現れるという色の遊び方の巧さも流石、と言うべきだろうか。そこが面白く思われる。

良きにせよ悪しきにせよ、基本的には原作通りにストーリーが進んでいく。大きな逸脱は見られない。今回の鑑賞で感じたことというのは、思った以上に登場人物の心理を表情で描くことが試されているなということだった。トラン・アン・ユンが何処まで村上春樹の意見を採り入れたかは不明だけれど、結果として出来上がったのは台詞に多くを依存しない作品だと思われたのだ。微妙な言葉の入れ違い、受け取り方の食い違いから生じる誤解、そして不仲が上品に描かれているという印象を持つ。なかなか凄いことではないだろうか。

悪く言えば、それだけこの映画は映像美にもたれ掛かり過ぎているきらいがある。ストーリーがテキパキとは展開しない、何処か間延びしたものとなっているのだ。これはトラン・アン・ユン監督の資質/美質でもあるので、仕方のないことだろう。そのあたりで「なんだか退屈な映画だ」と受け取るのか、それとも「この緩い感じが良い」と受け取るのか、それは観衆次第だ。私が後者なのは語るまでもないだろう。やや退屈で冗長にも感じられなくもなかったのだけれど、それでも『ノルウェイの森』の世界にどっぷりのめり込むことが出来た。

それにしても、と思う。他の人間ならもっと「68年革命」ないしは全共闘をゴリゴリに描くことに腐心するはずだ。だが、音楽を手掛けたジョニー・グリーンウッド(もちろん、レディオヘッドの一員として有名な彼)は、ビートルズの曲の代わりにカンを用いてマニアックにサイケデリックな方向にストーリーを転がす。だから、ビートルズを回顧してこの映画を観ようとすれば肩透かしを食らわされることだろう。この映画が特筆すべきはそういう分かりやすいキャッチーさを排した『ノルウェイの森』の、透明感と切なさなのだと思う。

私自身は高校生の頃に『ノルウェイの森』を通して二十回は読んだクチなので、今回の鑑賞もくどいが興味深く観ることが出来た。これを機にまた原作を読み直してみようかと思っているところだ。そして、イ・チャンドンが手掛けたという『バーニング』もまた観てみたいと思っている。村上春樹の映画化はしかし、こうやって考えてみると市川準の『トニー滝谷』といいアジアの人物が手掛けることが多い。偶然の一致だろうか。まあ、なるほどクリストファー・ノーランが『1Q84』を手掛けたりしたらそれはそれで怖いのだけれど……。