エドワード・ヤン『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』

牯嶺街少年殺人事件 [DVD]

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強烈な映画を観たと思わされた。時間にして四時間ほど。だから決して気軽に観ることは出来ない映画なのだけれど、観ながら様々なことについて思いを馳せることとなった。この映画には、少年少女たちしか生み出せない空間がある。そして、彼らが生きなければならなかった台湾の歴史が刻まれている。私の怠慢により台湾の歴史は全然知らないことばかりなので、もう少し教養があればと思ったことも確かだった。だが、矛盾するが教養などなくともこの映画は楽しめる。それだけの力を備えている。ただ、くれぐれも用心して掛かって欲しい映画だ。

この映画は様々な切り口から見られる。それこそ、少年たちのギャング団が縄張りや覇権をめぐって争い合う映画として観ることも出来るだろう。あるいは少四という名の少年と小明という少女をめぐるラヴロマンスとして観ることも可能だ。台湾の政治的風潮に翻弄されたひとつの家族をめぐる物語として観ることも出来る。観方は人によって様々だ。逆に言えば、それだけこちらに解釈の余地を委ねる情報量の多い映画ということになる。一度観ただけでなにかを語るのは早計というものだろうが、取り敢えず今思ったことを語ることにしたい。

この映画で印象に残っているのは、例えば台風の日のギャングたちの殺戮の場面である。敵のアジトを、停電の時に襲撃する。彼らは暗闇の中で切り合い殺し合うのだ。この「暗闇の中で」というのがエドワード・ヤンらしいと思った。普通ならここぞとばかりに殺戮を具体的に光に照らして見せるだろう。だが、そうはしない。暗闇の中で凄惨な殺し合いをさせる。だからこそ逆に殺戮の生々しさが伝わって来る。これだけに留まらずエドワード・ヤンのこの作品は、予期しない展開を巧みに持って来てこちらを引っ張っていく。ある場面から次の場面への飛躍のギャップでこちらを虜にさせる。

少年たちの映画なのに、彼らは既に大人びた風情を醸し出しているように思われる。ギャングたちの当て所もない日常……ある者はそこから抜け出そうと猛勉強に走り、ある者はそこで腹を括って復讐を誓い破滅へと突っ走っていく。エドワード・ヤンは容赦なく彼らの未来のなさを、彼らの破滅を描く。それは最後の最後、ネタを割るのは慎むが実にやり切れない殺人を生じさせることでこちらに重い余韻を残すことになる。殺人とは悪だ。それは分かっている。だが、何故人は人を殺すのか? その答えをこちらに問う重い映画となっているように思われる。

これ以上この映画について語ることは難しい。前半は特にこれと言って面白味を感じずに過ごしていた。ところが、中盤から尻上がりに面白く感じられそこから徐々に引き込まれていった。私は人の顔と名前を覚えられないので誰がどういう役回りでなにをやっているのか分からず苦労しながら観たのだけれど(このあたり、当然この映画を観ているだろう阿部和重の『シンセミア』あたりの小説に似ているものを感じた。あるいは中上のサーガ、等など)、でも素朴にカットとカットの繋ぎ方ひとつひとつを楽しむだけでも面白いのではないか。

到るところに充溢している死の匂い……例えばそれは日本刀やピストルの出現であり、上述したようなギャング団の派手な抗争であり、最後の心中と呼べるような殺人であったりするだろう。この映画は救いがない。真面目な奴が地獄のような日常から抜け出せるといった話にはならない。そこから抜け出せるのは運に恵まれた者のみ。あとは全員うだつの上がらない日常に苦しめられることとなる。それは今の日本の閉塞感にも似ていて、だから「今」この映画が観られる切っ掛けを作っているのではないかなと思わされた。

ともあれ『牯嶺街少年殺人事件/クーリンチェ少年殺人事件』は、私の中に癒しがたい悲しみ/絶望を残す映画として記憶に刻まれるだろう。彼らの殺し合い、そしてあまりにも稚拙な愛の形。そんなものを四時間の尺で、しかも過不足なく見せられたのだ。最初は気になった上映時間の長さだったが、終わってみるとさにあらず。濡れ場もなく、キスシーンが精一杯の甘酸っぱい青春。だから特にデーハーで甘々なロマンスはないのだけれど、だが、そこが良いと思わされる。少年たちのイキリ具合がこの映画を支えている。誰に感情移入して観ようが自由だ。

悲劇……ひと口で言えばそうなる。しかし、この映画はところどころ笑いを取る場面もあり、ショットとショットの繋ぎ方に凝っているので飽きさせない。序盤の展開がややもたついている感があったのだけれど、これに関してはもう一度観直してから語る必要があるようだ。ともあれ、この映画は実にヘヴィな映画だ。だけれどもこれが「リアル」なのだという奇妙な説得力を感じさせるところがある。安易に図式に落とし込んで解釈させることを拒むだけの力がある、と。だから私はこの映画を語る資格を持てないのかなと思ってしまった。

エドワード・ヤン『ヤンヤン 夏の想い出』

物草なもので、エドワード・ヤンの映画を観るのもこれが初めてとなる。『クーリンチェ殺人事件』『恐怖分子』など気になっているものは多々あったのだけれど、なかなか手に取れないままで過ごして来てしまった。遅れ馳せながら観終えたのだけれど、実に興味深い作品だと思われた。

スジらしきスジはない。敢えて言えば、ある家族の物語となろうか。ジョン・アーヴィングの小説のように、誰に焦点を当てるでもなく群像劇が淡々と進んでいく。だから、一見するととっつきにくい感じを覚えるかもしれない。三時間が長く感じられなかったかと言うと嘘になるが、しかし三時間の必然性を感じさせる映画でもあった。

キーワードとなるのは、原題の「a one & a two」だろう。「ひとつとふたつ」「1と2」というタイトル。これはどういう意味を持つのだろうか。差し当たっては、この映画が語ろうとしているものを愚直に読んでいく方向から語っていこうかと思う。「ひとつとふたつ」。足すと「三つ」となる。さて、この意味は?

「映画は人生を三倍にする」という台詞がまずは回答として挙げられるのではないだろうか。人生は一倍の人生である。別に深く考えなくても分かることだ。映画は、人生を二倍にしたものを味わわせてくれる。体験したことのない殺人事件や、その他の人生を味わわせてくれる豊富なメディアだ。それによって二倍の人生を味わうことになる。一倍の人生と二倍の人生、足すと三倍だ。これがまずは「a one & a two」の答えということになるのだろう。だが、他にも裏読みをしてしまいたくなる。この映画に出て来る人々の姿から読み取ってみたい。

一方で赤子が誕生し、一方で母が死に瀕するというシチュエーションに置かれていることを念頭に置いて映画を観るべきだろう。誕生と死、幸福と不幸が同時に起こっているところから映画は始められる。その厳粛なシチュエーションが、映画全体にハッピーともアンハッピーとも言い難い独特の空気を充満させている。そして、赤ちゃんの生誕はひとりの人間がふたりの夫婦の間で生まれることを考えれば「a one & a two」の図式を強固すると言っても良いのではないかと思う。母の死に関しても同じ図式を読み取れるかもしれないが、今回の鑑賞ではそこまで読み取れなかった。精進したいと思う。

そして、この映画は先述したように如何なる主人公も持たない。だから誰に感情移入して映画を観るかは比較的自由に観衆に委ねる形になっている。このあたり、私の少ない映画的知識から言えば濱口竜介『ハッピーアワー』を連想してしまった。『ハッピーアワー』もまた、生真面目な人々がエゴを剥き出しにしてやり合う映画なのだった。この映画からあるいは『ハッピーアワー』は影響を受けたのだろうか? とまあ、頓珍漢に考えは膨らんでしまう。静謐なショットの数々も両者の類似/相似を際立たせていると思う。

これで語れることは大体語った。私らしくスジに沿って語るなら、この映画が語ろうとしていることは結局「人生をやり直すことは出来ない」ということなのだろうと思う。ひとつの人生を生きることしか出来ない、と……昔の恋人とよりを戻す男は、しかし相手に振られてしまう。そう考えればこの映画でイッセー尾形が語る台詞も印象的だ。私たちは朝起きると、それが昨日の朝の繰り返しのように思ってしまう。しかし、そうではないのだ。朝は常に未知なる朝であり昨日の朝と今日の朝は違う。何気に意味深な言葉だと思う。この映画を幾分か前向きな/ポジティヴなものにしているとしたら、この台詞が大きい。

ネタを割ると、最後の最後で母は死ぬ。その時にヤンヤンは、人の後頭部を撮るなどしてカメラを使っていたことを踏まえて、人の知らないことを教えられる人間になりたいと語る。ヤンヤンのこの凛とした言葉が堪らない。もっとも、この言葉に辿り着くまでの三時間をヤンヤンだけに感情移入して観るのは酷というもの。その時その時に現れる人物の心中を察して、映画を読み取っていかなくてはならない。人の表情から映画を読み取れない自分には結構ツラい作業だったことを告白しておく。初見なのでいつも以上に粗い感想になってしまって申し訳ないと思う。

ウィンドー越しの撮影、ロングショット、ニュース映像の挿入、長回し……色々な技法を使って、決して台詞で説明させようとせずにシチュエーションを設定し引っ張っていく手管は見事。エドワード・ヤン、これは『クーリンチェ殺人事件』も『台北ストーリー』も観ないとなと思わされた。欲を言えば『エドワード・ヤン再考/再見』も読んでみたいところなのだけれど、既にプレミア価格がついているようなので残念。再販を期待したい。ともあれ、久々に手強い映画を観たと思わされた。それが今回の鑑賞の感想となる。

トッド・ヘインズ『キャロル』

キャロル [DVD]

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トッド・ヘインズ『キャロル』を観た。同監督の『ワンダーストラック』を観たかったのだけれど、この映画について今一度考え直す必要があると思ったのだ。

古き良き時代、つまり今よりも保守的だった時代にひとりの女の子が禁断の同性愛という「恋愛」(しかも相手はかなりの歳上)を通して大人になる……と、ストーリー自体に新味はない。数多く作られて来た恋愛映画のパターンをそのまま踏襲しており、意外性に欠けるきらいはある。だがそれがさほど目立たずに面白く観られたのは、やはりこちらが「同性愛」という題材に興味を惹かれてしまうその私が持つ「俗情」に訴え掛けるからだろう。興味本位、とも言えるのかもしれない。それが私の側のゲスな心理を露呈していることに繋がりかねないのを私は否定しない。

だが、大西巨人風に言うなら「俗情との結託」、つまりこちらのゲスな心理につけ込もうとするあざとさはこの映画にはない。丁寧に分かりやすくキャラクターの心理を描いているので、良く言えば松浦理英子氏の小説のように真摯で繊細な味わいがある。原作を読んでいないので何処まで忠実に映画化したものなのかは分からないが、しかしこの独自の上品さ(ルーニー・マーラケイト・ブランシェットの濡れ場のあの品の良さ!)は「買い」だろう。それは認めるに吝かではない。

それ故に惜しく思うことも確かである。この作品は悲劇的な要素を内包しているが、淡々と進んで行くストーリー展開(それがどれだけシンプルなものかは上述した通りだ)故に起伏に欠けるとも言える。もう少しセンセーショナリズムに頼って描けばもっと良い作品になったのではないかとも思うが、しかしそれをやってしまうとこの映画の持ち味である上品さそれ自体が損なわれてしまう。だからこれはあくまで観る私の側に覗き趣味がある、という「自己批判」としても返って来るのだろう。

あるいは、これが遂に私が「恋愛」というもの全般を理解出来ないから来る限界なのだろうが、ふたりが恋に落ちる心理に説得力を感じなかった。いや、皆無というわけではない。ただ異性愛者である(と思う)ルーニー・マーラが何故ケイト・ブランシェットを愛してしまうのか、その前段階としてボーイフレンドとの不仲な状況をもう少し下拵えしておけばあるいは、とも思う。もしくはケイト・ブランシェットが親権をめぐって争っていることも……ただ、これも痛し痒しなのだ。

この映画では男は徹底して醜く描かれる。ケイト・ブランシェットの元夫、その元夫に情報をリークする男、そしてルーニー・マーラのボーイフレンド……彼らに対する慈悲のない描写は――くどいが、ゲスに描かれることがないのが救いなのだが――この映画を「女性たち」のものとして成立させることに成功していると思う。だから、男たちの情報をこれ以上この映画の中に入れてしまうと女性たちの恋愛の純粋さが損なわれてしまう。だから避けたのかもしれない。それはそれで賢明な判断でもあると思うので、ここで悩ましく感じるのだった。

この映画では「赤」と「緑」が上手く使われる。ルーニー・マーラが店員として勤めるデパートでは赤い帽子を被るし、ケイト・ブランシェットは幾度か「赤」い服と「緑」の服を着替えることになる。登場人物がそのようにして纏う服はどう解釈すれば良いのだろうか? 私はこれを、「赤」い服はキャロル/ケイト・ブランシェットの攻撃的な姿勢を示すものとして、「緑」の服を彼女の親愛や受容を示す柔和な姿勢を示すものとして観たのだけれど、このあたりは自信がない。再見が必要だろう。

それ以外にも色彩美は(原色を使えば良い、という一見すると斬新なようでありながら実は安直な発想を排された姿勢で)活かされることになる。壁に塗るペンキの水色、あるいは「赤」い部屋で現像されるモノクロームの写真の黒さにも現れている。この映画の懐かしさはこうした、制作陣の色彩に対する丁寧なこだわりにあるのではないかとも思った。それ故の「上品さ」も確かにあるので、これもまた悩ましい。野蛮さを求める私はお門違い、ということにもなるのだろう。最後の最後でルーニー・マーラは黒い服を着る。このあたりも、通過儀礼を通して大人になったルーニー・マーラが幼かった頃の自分を哀悼しているかのような、喪の仕事に従事しているような感じがして面白い。

手放しでこの作品を褒めることは出来ない。もう少しダイナミズムがあれば……と思わなくもない。だが、そのダイナミズムがないこと、そういった劇的なデーハーさに拘泥しないことがこの映画を良いものにしているという見解も分からなくもないので、ここで思考が止まってしまうのだった。これ以上のことはトッド・ヘインズの映画を観てから考えてみたい。ともあれ、良質な作品であることは認めるに吝かではないので、あとはこちらの「好み」の問題になって来るのだろう。またしても己を問い直させられる映画、小作りだが良質な映画にぶつかってしまったものだと思わされた。

マーティン・スコセッシ『タクシードライバー』

今から遡ること20年くらい前に、初めてこの映画を観た。まだ映画に関してシロウトで、それどころか映画嫌いだった頃の話である。そんな私が何故この映画を観ようと思ったのか、特に記憶にない。強いて言えば、村上龍の小説がこの作品に似ているからと言われたことが挙げられるかもしれない。

私はその頃からウェブサイトをやっていて、まめに日記を更新したりしていた。この作品を観終えたあとも感想を書いた記憶がある。手元にデータはないのだけれど、不気味な作品だなというような、我ながら実に幼稚な感想を書いたのだった。ただ、その感想は今回の鑑賞でも変わることはなかった。今ならその不気味さの理由を説明出来る気がする。何処から語ったら良いだろうか。まず、この映画を「タクシードライバーが娼婦を救う話」と捉えると火傷を負ってしまうというところから始めたい。この映画の主人公トラヴィスはヒーロー的存在ではない。以下ではネタを割る。

ラヴィスという、不眠症タクシードライバーになる男について映画は特に深く語らない(従って、彼がヴェトナム戦争の帰還兵であるという設定もさほど浮かんで来ない)。トラヴィスは特に宛もないまま運転を続けて、様々な乗客を乗せる。アルベール・カミュ『異邦人』よろしく、不気味に選挙運動中のスタッフの女性をデートに誘い一緒にポルノ映画を観ようと試みる。そんな彼の前にアイリスという少女が現れる。彼女は娼婦であり、トラヴィスに助けを求めるが叶わない。アイリスはスポーツというポン引きとつるんで商売をしている。そんなアイリスをトラヴィスは解放する。これがこの映画のプロットである。

と書くと、あたかもアイリスをスポーツからトラヴィスが助け出した話のように思われるかもしれない。しかし、事実は違う。アイリスはトラヴィスに対して、助けを求めたことは嘘だったと語る。ラリっていたから、あるいは……いずれにせよ嘘だったと。これがアイリスのトラヴィスに対するその場しのぎの嘘なのか本音なのか、映画は最後まで語らない。解釈は観衆に委ねる、というやつだ。アイリスは家出中の身だったのだがトラヴィスの手によって家に戻り、トラヴィスはヒーローとして新聞に載るのだった。しかし、騙されてはいけない。トラヴィスはヒーローなのか? アイリスは幸せになったのか? 映画がそこまで語っていないことに留意しなくてはならない。

ラヴィスの行動は一見すると支離滅裂だ。ポルノ映画を観ようとデートに誘うあたりからして常軌を逸する人物であることは間違いない。だが、トラヴィスは世間体を気にしない。その意味では一貫している。やりたいようにやり、生きたいように生きる。その欲望/自由意志が目指すものを直感的に手に取ろうと試みて、大統領候補の暗殺まで試みるところに至る。この暴走の理由についても映画は語らない。ヴェトナム戦争の遺恨? それは深読みというものだろう。それだったら時流の流れとともに映画は古びてしまうからだ。

ラヴィスの行動を見て、私はふとデヴィッド・フィンチャーファイト・クラブ』を連想した。『ファイト・クラブ』に出て来るタイラー・ダーデンという男のことを考えたのだ。タイラー・ダーデンもまたやりたいようにやり、生きたいように生きる自由奔放な人間だった。その自由さ、豪快さにカリスマ性が備わっていた。だから彼についていく男たちも居た。トラヴィスはその意味でタイラー・ダーデンの先祖と言えるのかもしれない。トラヴィスの行動を止める者が居ないところ、彼についていくフォロワーが居ないところは違うのだけれど。

生きたいように生きる男……誰もが憧れるのではないか。常識を超えて、自由意志に従って生きる男。トラヴィスが例えば後の本田透の『電波男』でヒーロー的存在として語られるのも、その意味では合点がいく。私自身も生きるとしたらトラヴィスのように生きたいと思うが、しかし自由意志に従って奔放に生きる存在に不気味さを感じない人間など居ないのではないか。タイラー・ダーデンは結局カリスマ的存在になった挙げ句破滅を導いたし、トラヴィスも銃弾が飛び交う都市に帰っていく。その不敵なところ、ふてぶてしさに私はなんとも言えない不気味さを感じる。村上龍の小説と似ていると言えば確かに似ている。だから私は村上は村上でも村上春樹の方に惹かれるのかなと思ってしまった。

とまあ話は脱線してしまったが、『タクシードライバー』のトラヴィスを目指して実際に肉体を鍛えて、犯罪に手を染める人間が出て来ないとは決して言えないのではないか。タイラー・ダーデンは結局アンチ・ヒーローとして描かれるが、トラヴィスはそうではない。トラヴィスの危険性/薄気味悪さを感じないとしたら、己の感性を疑って掛かった方が良いかもしれない。

ジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』

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観終えたあと、溜め息をついてしまった。もちろんそれはつまらなかったからではない。逆だ。この映画に洗練を見出してしまったからだ。ヒップなものを寄せ集めたらこうなった、というような映画みたいに感じられた。流石はジャン=リュック・ゴダールと言うべきか。

ストーリーらしきストーリーは存在しない。男と女が居る。ミシェルという名の男は警官を殺して、追われている身である。そんなミシェルに、ジャーナリストのパトリシアという女性が惚れる。彼らが痴話喧嘩めいたことを延々と続けつつ、逃避行を繰り広げる……というB級活劇ないしはラヴロマンスのような映画だ。

ゴダールの映画は難解だと言われている。それは確かにそうなのだろうと思う。一度しかこの映画を観ていないので理解出来たかというと難しいところだけれど、例えば渋谷系と呼ばれるミュージシャンの映画や岡崎京子の漫画、もしくは小西康陽の文章にも似たイキなものの寄せ集めという印象を抱いてしまったのだ。敢えてこちらの安易な理解を遠ざけようとするかのように噛み合わない会話が繰り広げられ、ロマンスは脱臼したテンポで語られる。だから従来のロマンスという映画では括れない出来栄えとなっているように感じられる。

しかし、そういう安直な理解を超えてソウル/マインドにダイレクトに伝わって来るようななにかがあることもまた確かなのだ。それがなんなのか、初見なので分からないでいる。ともあれ、車と男と女という三点セットの組み合わせでこれだけの映画を作れるセンスは脱帽というしかないだろう。片岡義男の小説を思い出しながらこの映画を観ていた。悪く言えばそれだけ「良く出来た」「ウェルメイドな」映画というわけではない。逆だ。ギャグは滑っているし、初歩から撮り直せと言いたくなるほど散漫な出来にも感じられる。

もちろん、その滑り具合とか完成度の低さもゴダールが「狙って」撮っていることは間違いがないので悩ましいところ。敢えて「良く出来た」「ウェルメイドな」映画を拒否して、自身の感じるままにヒップなものを寄せ集めた感じ/感覚こそがこの映画の持ち味である。通ならきっとそのヒップな感覚に惹かれるはずだ。この感覚、理解出来るだろうか。なにはともあれ前衛的/アヴァンギャルドなことをやっているその精神は理解出来る。『気狂いピエロ』でもそうだったが、第四の壁を破っているところも評価したい。私は『気狂いピエロ』ほどにはこの映画を買わないのだけれど。

そんなところだろうか。ジャン=リュック・ゴダールに関しては本当にシネフィルが口を揃えて絶賛し、村上春樹ゴダールは若い内に観ておくべきというようなことを語っていたので『気狂いピエロ』を観て――当時の鑑賞ペースは年に二本か三本という体たらくだった――見事に玉砕したので、ゴダール嫌いが続いてしまっていた。ゴダールはそういう私の体験/経験を踏まえて言えば、ある程度映画を見慣れて「お約束」を分かった人が楽しめる娯楽なのではないかと思う。「お約束」の外しぶりがゴダールの美徳なのではないか、と。

私自身ゴダールは『アワーミュージック』と『気狂いピエロ』、そしてこの『勝手にしやがれ』を観た程度なのでこれから『ウィークエンド』のような作品にも挑んでいきたいと考えている。いや、ゴダールは侮れない。佐々木敦の論考も読みたいし、何故皆が口を揃えてゴダールを絶賛するのか、その理由の片鱗を掴めたような気がした。ただ、私の好みで言えばトリュフォーの方が好きだし、そもそもヌーヴェル・ヴァーグについて不勉強が祟ってまともに評価出来ないので、これから中年の楽しみとして大事に観ていこうと考えている。

ショットの美しさで言うならスタンリー・キューブリックアンドレイ・タルコフスキーの方がはるかに上だし、ストーリーテリングならフランソワ・トリュフォーやもっと下の世代の監督なら活劇という意味でクエンティン・タランティーノのような作家とは全然違う。その意味で、いわゆる「巧い」作家であるとは思わない。ただ、「巧い」とは違った判断基準を作り上げた凄味こそがジャン=リュック・ゴダールの映画なのではないか……と、三本しか観ていないのだけれどそんなことを考えてしまった。これはしてやられた、と思わされた。

ともあれ、老後の楽しみに取っておこうと思って敬遠して来たゴダールを観て来たわけだけれど、これからどうしようか。山田宏一『友よ映画よ わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』のような本から学ぶべきなのだろうか。私は口が裂けても自分がシネフィルだとは言えないのだけれど、ここまで来たらいっそのこと今からでもゴダールの世界にどっぷり浸かって行くのも悪くないのではないかなとも思っている。いや、『勝手にしやがれ』の精神に倣って自分も奔放に映画を観ようか……映画鑑賞ににライセンスなどないのだから。

ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』

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ジャン=リュック・ゴダールの映画に関しては、既に多くの事柄が語られている。どれもこれも私の知る限りでは賛辞ばかりだ。まだ映画に関してなにも知らなかった頃、その賛辞を信じてこの『気狂いピエロ』に挑んだことがある。見事に玉砕してしまった。さっぱり映画の良さが分からなかったのだ。それ以来、ゴダールの映画は老後の楽しみに取っておこうと思って敢えて敬遠して来た。しかし、トラン・アン・ユン『シクロ』を観て『気狂いピエロ』から引用されている箇所があることを知り、「今ならゴダールが分かるのかもしれない」と思いこの映画にリヴェンジすることにした。

気狂いピエロ』にスジらしきスジは存在しない。一応はロード・ムーヴィーだ。男と女が出会い、彼らはボニー&クライドよろしく犯罪に手を染め逃避行を繰り広げる、という類の話。しかし、スジの理路整然とした映画を好まれる方はこの映画を観ることは難しいのではないか。『気狂いピエロ』の旨味はそんなストーリーテリングではなく、ポップで洗練されたセンスにあると思われたからだ。例えば音楽の使われ方、撮られ方、色使いのセンス等などである。ゴダールの色彩感覚は実に優れたものと言わざるを得ない。

例えば、冒頭のパーティーの場面で室内を照らす赤と黄色、青色のライト。ここからして印象深い。赤はこの映画において取り分け重要な色として登場する。ジャン=ポール・ベルモンドが着る服の赤。アンナ・カリーナの乗る車の赤。あるいは扉や本のカヴァーの赤。様々なところに赤色を配色し、こちらの視覚に訴え掛ける。だから観ていて心地良い。飽きさせることなくこちらを掴んでいくセンスは確かに優れたものであると思わされた。それが分かるようになったのも映画をこれまでバカみたいに観まくったせいなのかな、と思うと嬉しくなった。

これ以上のことはゴダールをもっともっと観ないと語れない。ただ、例えば金井美恵子高橋源一郎の作品にもゴダールが影を落としているようにも感じられる。金井に関しては具体的にどの作品とは言えないが、例えば高橋の『さようなら、ギャングたち』でギャングたちが銃殺される場面のアンニュイな雰囲気は『気狂いピエロ』のそれにも似ているかな、と思うのだ。もっともそれは彼らが潜り抜けた60年代末期の空気――「六八年革命?」――を映したものであって、ゴダールの影響ではないと言われればそれまでなのだけれど。

「C'est la vie.」、つまり「それが人生だ」という言葉が時々使われる。「人生」というキーワードもこの映画を理解するためには押さえて置かなくてはならないだろう。彼らは人生について語るが、その語り方は何処か醒めている。退屈なものとして、何処かシニカルに人生を捉えているように感じられる。芝居掛かった台詞から見えて来るのはそういうシニシズムだ。ゴダールは若くして人生とはなにかを悟ったのか? それとも単なる若書きの産物なのか? この醒めた感覚をクールと捉えられるかどうかは好みの別れるところだろう。

ともあれ、ここからゴダールの映画めぐりを始めるのも良いのかもしれないなと思わされた。本当に私はゴダールを敬遠していたので(より厳密に言えば、ゴダールを語る人々に違和感を覚えていたため)、自分自身を恥じさせられた。例えばスチュアート・マードック『ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール』といった映画はゴダールのこの映画を抜きに語ることは出来ないのかな、と……と書いていて思い出したのだけれど、この映画は一風変わったミュージカルとしても楽しめる。音楽にセンスがあるというのはつまりそういうミュージカル的な要素を孕んでいるからでもある。

ミュージカルであり、ロード・ムーヴィーであり、そしてロマンス。あるいはハードボイルド的な映画と見做すことも出来るだろう。五目寿司のように様々な要素が詰まった映画だ。だから、一見するとワケが分からないかもしれない。あと、この映画のギャグは(例えば顔をペインティングして芝居に興じるあたりは)北野武にも似ているかなとも思ったのだけれど、これはまたいつもの私ながらの頓珍漢なのかなとも思う。まあ、色々書いてしまったが、そんな多面的なところから切り込める映画として面白いのではないかと思う。

あと、赤ということで言えば火もまた赤の産物だし、アンナ・カリーナが流す血も赤い。そのふたつの赤をフィルムに収めたところもまた面白いと思われた。色彩美に関して私はさほどセンスを備えている人間とは言い難いが、この映画を楽しめるのも映画をある程度見慣れたからなのだろう。ゴダールは難解、という定評はあるが考えてみれば映画を「気狂い」のように観まくった人が撮った映画なのだ。こちら側もある程度は「気狂い」に映画を観て、それからつき合う必要があるのではないか……となんのひねりもないオチで〆たい。

アンドレイ・タルコフスキー『サクリファイス』

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アンドレイ・タルコフスキーサクリファイス』は、彼自身の遺作に当たる。つまり、彼が残した最後のメッセージがこの映画に隠されている……と言って大袈裟過ぎるというのなら、少なくとも黒澤明が『夢』『まあだだよ』で示したような最晩年の境地を示している、と言うのは過言ではないだろう。

ストーリー自体は至ってシンプル。50歳の誕生日を迎える教授は、ゴトランド島でヴァカンスを楽しむつもりだった。だが、そこで核戦争が勃発したことを知る。教授は慌てふためき、なんとかしようと己を生贄(サクリファイス)にしようと思いつくが……というプロットだ。

核戦争のリアル、と言っても平成生まれの人は(もう令和だしね!)ピンと来ないかもしれない。東西冷戦時代は共産主義と資本主義が覇権を争っていて、一触即発の恐怖を味わわせられた時代でも合った。そんな時代背景を読み込むとこの映画が語っていることがちっとも難解でもなんでもないことに気づかされる。私たちは幸か不幸か 3.11 を体験して来たので、不謹慎極まりない表現をするならあるいはこの映画は「フクシマ」について語った映画と読み取ることも出来るのかもしれない。非常事態における人間の行動を扱ったものとして。

この映画を観ながら、私は乏しい映画的知識の中からラース・フォン・トリアーメランコリア』を引っ張り出してしまった。ラース・フォン・トリアー監督がこの映画を観てないとは考えにくいが、しかしタルコフスキーの映画は鬱展開にはならない。ロングショットや長回しの多用などで似ていると言えば言えるが――もちろんプロットもだ――しかしタルコフスキーの映画が一ミリでも希望を与えてくれるとするなら、それは取りも直さず最後の最後で火と水の融合を果たし得たからなのではないか、と邪推してしまう。

火と水。故あってレヴューが書けないでいるのだけれど、同じタルコフスキー監督の『鏡』もまた火と水を扱った、甘美な少年時代の記憶をめぐる物語なのだった(例えばライナー・マリア・リルケ『マルテの手記』や、ヴァルター・ベンヤミンの散文/エッセイを彷彿とさせるものだった、と言えば伝わるだろうか)。そして映画をリードしているのは、火と水なのである。この映画でもカタストロフは火によってもたらされる。ネタを割ってしまうと、彼らが住んでいた家が焼け落ちるのだ。火は人間が遂にコントロールし得ないものであり、ある意味では焼け落ちる家とは核戦争のもたらした終末のメタファーであると言っても良いのかもしれない。

しかし、映画はそこで終わらない。とある少年の行動が最後に仄明るい未来を照らし出し、そして締め括られる。そこで、火と水は奇跡の融合を果たす。即ち、海面を照らす太陽の光という形である。火の集合体である太陽が、水の集合体である海を照らす。しかもこれらは矛盾したものではなく、奇蹟的な調和/ハーモニーを奏でているのだ。最後の最後にこんな鮮やかなエンディングを持って来られれば、唸るしかないではないか。タルコフスキーは最後の作品で、奇蹟を成し得たのだ。もちろん彼自身はもっと撮るつもりはあったにせよ。

そんなところだろうか。あと思ったのは、タルコフスキーが示してみせた日本へのこだわりである。なんとなく聞き覚えのある音色だな、と思いながら映画の BGM を聴いていたのだけれど、実は尺八だったのだ。このこだわりに意味はあるのか? それともただの気まぐれなのか? いや、『惑星ソラリス』でも日本の都市を引用してみせた監督である。ただの気まぐれと斬って捨てるには惜しい発想だ。だが、これ以上は例によって私には語れない。詳しい論客の文章から虚心に学びたいと、改めて思ったところである。まだまだ私もアマちゃんだ。

とまあ、小難しいことを書いてしまったがさほど難解に捉えなくても良い。コントにも似た最後の小競り合いを笑いながら楽しむも良し、主人公が女性を前にして見せてしまう情けなさを楽しむも良し、タルコフスキーならではの思弁的やり取りの丁々発止を楽しむも良し。捉え方は人の数だけある。私も正解を人に押しつけたくてこんな文章を書いているわけではない。ニーチェを知らないこともあって最初の鑑賞となる今回で読み取れたのはここまでだった。これから先は宿題にしていずれ語り直したいところ。残念に思う。

タルコフスキーめぐりも残すところは『僕の村は戦場だった』を残すところのみとなった(短編は除く)。今のところ好きなのは『鏡』と『惑星ソラリス』くらいか。初心者にもこの二作はオススメ出来るのではないかと思う。眠くなる? それはそれで良いじゃないか。生真面目にコーヒーをキメてから挑むなり、思い切って爆睡するつもりでノーガードで観るなり、これまた人の数だけ楽しみはある。タルコフスキー、必見とは思わないにしろ重要な監督であることは今回の鑑賞で明らかとなった。是非火と水の融合を楽しんで欲しいと思う。