エドワード・ヤン『ヤンヤン 夏の想い出』

物草なもので、エドワード・ヤンの映画を観るのもこれが初めてとなる。『クーリンチェ殺人事件』『恐怖分子』など気になっているものは多々あったのだけれど、なかなか手に取れないままで過ごして来てしまった。遅れ馳せながら観終えたのだけれど、実に興味深い作品だと思われた。

スジらしきスジはない。敢えて言えば、ある家族の物語となろうか。ジョン・アーヴィングの小説のように、誰に焦点を当てるでもなく群像劇が淡々と進んでいく。だから、一見するととっつきにくい感じを覚えるかもしれない。三時間が長く感じられなかったかと言うと嘘になるが、しかし三時間の必然性を感じさせる映画でもあった。

キーワードとなるのは、原題の「a one & a two」だろう。「ひとつとふたつ」「1と2」というタイトル。これはどういう意味を持つのだろうか。差し当たっては、この映画が語ろうとしているものを愚直に読んでいく方向から語っていこうかと思う。「ひとつとふたつ」。足すと「三つ」となる。さて、この意味は?

「映画は人生を三倍にする」という台詞がまずは回答として挙げられるのではないだろうか。人生は一倍の人生である。別に深く考えなくても分かることだ。映画は、人生を二倍にしたものを味わわせてくれる。体験したことのない殺人事件や、その他の人生を味わわせてくれる豊富なメディアだ。それによって二倍の人生を味わうことになる。一倍の人生と二倍の人生、足すと三倍だ。これがまずは「a one & a two」の答えということになるのだろう。だが、他にも裏読みをしてしまいたくなる。この映画に出て来る人々の姿から読み取ってみたい。

一方で赤子が誕生し、一方で母が死に瀕するというシチュエーションに置かれていることを念頭に置いて映画を観るべきだろう。誕生と死、幸福と不幸が同時に起こっているところから映画は始められる。その厳粛なシチュエーションが、映画全体にハッピーともアンハッピーとも言い難い独特の空気を充満させている。そして、赤ちゃんの生誕はひとりの人間がふたりの夫婦の間で生まれることを考えれば「a one & a two」の図式を強固すると言っても良いのではないかと思う。母の死に関しても同じ図式を読み取れるかもしれないが、今回の鑑賞ではそこまで読み取れなかった。精進したいと思う。

そして、この映画は先述したように如何なる主人公も持たない。だから誰に感情移入して映画を観るかは比較的自由に観衆に委ねる形になっている。このあたり、私の少ない映画的知識から言えば濱口竜介『ハッピーアワー』を連想してしまった。『ハッピーアワー』もまた、生真面目な人々がエゴを剥き出しにしてやり合う映画なのだった。この映画からあるいは『ハッピーアワー』は影響を受けたのだろうか? とまあ、頓珍漢に考えは膨らんでしまう。静謐なショットの数々も両者の類似/相似を際立たせていると思う。

これで語れることは大体語った。私らしくスジに沿って語るなら、この映画が語ろうとしていることは結局「人生をやり直すことは出来ない」ということなのだろうと思う。ひとつの人生を生きることしか出来ない、と……昔の恋人とよりを戻す男は、しかし相手に振られてしまう。そう考えればこの映画でイッセー尾形が語る台詞も印象的だ。私たちは朝起きると、それが昨日の朝の繰り返しのように思ってしまう。しかし、そうではないのだ。朝は常に未知なる朝であり昨日の朝と今日の朝は違う。何気に意味深な言葉だと思う。この映画を幾分か前向きな/ポジティヴなものにしているとしたら、この台詞が大きい。

ネタを割ると、最後の最後で母は死ぬ。その時にヤンヤンは、人の後頭部を撮るなどしてカメラを使っていたことを踏まえて、人の知らないことを教えられる人間になりたいと語る。ヤンヤンのこの凛とした言葉が堪らない。もっとも、この言葉に辿り着くまでの三時間をヤンヤンだけに感情移入して観るのは酷というもの。その時その時に現れる人物の心中を察して、映画を読み取っていかなくてはならない。人の表情から映画を読み取れない自分には結構ツラい作業だったことを告白しておく。初見なのでいつも以上に粗い感想になってしまって申し訳ないと思う。

ウィンドー越しの撮影、ロングショット、ニュース映像の挿入、長回し……色々な技法を使って、決して台詞で説明させようとせずにシチュエーションを設定し引っ張っていく手管は見事。エドワード・ヤン、これは『クーリンチェ殺人事件』も『台北ストーリー』も観ないとなと思わされた。欲を言えば『エドワード・ヤン再考/再見』も読んでみたいところなのだけれど、既にプレミア価格がついているようなので残念。再販を期待したい。ともあれ、久々に手強い映画を観たと思わされた。それが今回の鑑賞の感想となる。