ドゥニ・ヴィルヌーヴ『プリズナーズ』

プリズナーズ [DVD]

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人は何処まで正義を背負えるのだろう? この映画を観終えたあと、そんなことを考えてしまった。例えば Twitter なら Twitter で「ポリコレ」を求め、義憤に駆られて人を厳しく断罪する人たちが居る。そんな人たちに対して私はあまり良い印象を抱かないが、この映画を観て連想したのはまさしく、ポリコレ棒を振りかざし人を弾圧して回る人たちの姿だった。それはこの映画のヒュー・ジャックマンがまさに、自分の正義を信じて疑わない「善人」であり、そのために正義が暴走して悲劇を巻き起こす光景を披露するからに他ならない。

話が先走りしてしまったようだ。スジの紹介はこうなる。感謝祭の日、敬虔なキリスト教徒であるふたつの家族が集う。その日は平穏に感謝祭を過ごせるはずだった。しかし、それぞれの家族の娘たちが消えてしまう。失踪? 真っ先に疑われたのが意味深な発言をした、知的障害者のアレックスという名の男だった。彼はだが警察から身柄を釈放される。なにも証拠となるものが出て来なかったからだ。納得がいかないひとりの父親は禁じていた酒を再開し、必死の思いでアレックスという男を尋問する。一方で敏腕刑事が怪しい男を突き止める。ふたつのストーリーがやがてぶつかり合う。

とまあ、サスペンス/ミステリ/スリラーとして見ればなかなかのものだ。さほど凝ったものではないので、大体の人は犯人を当ててしまうだろうがそんなことはどうでも良い。ドストエフスキーの『罪と罰』が単なるミステリとして読めば陳腐にしか読めないのと同じで、この作品も別の角度から読むと非常に面白いものとなる。それは上述した通りで、人は何処まで正義を背負えるかという問題ではないかと思うのだ。ヒュー・ジャックマンの話をしよう。彼の行動を、人はどう評価するだろうか。私は幸か不幸か娘が居ないので、彼の行動を理解出来るとは言い難いのだけれど……。

ヒュー・ジャックマンが問題なのは、彼が悪人だからではない。善人なのだ。妻も「良い人」と刑事に対して語る。徹底的に自分を律し、祈りの文句を口にし、なにかあった時の備えを万全に施している。言い方を変えればこれ以上ないほど真面目な人だ。だからこそ、彼の真面目さが暴走してアレックスという男を顔が腫れ上がるまでぶん殴り、熱湯か冷水しか出て来ない部屋で男を水攻めにする場面の凄惨さが際立つ。彼の行動を何処まで支持したものだろうか。刑事が無能というわけではないので(そこが『スリー・ビルボード』のような教訓臭さが鼻につく映画とは違う)、困ってしまう。

プリズナーズ』というタイトルが引っ掛かった。素朴に訳するなら「囚人たち」となろう。だが、この「囚人たち」とは誰のことなのか。アレックスという男? だったら単数形で良いはずだ。あるいは他の誰であっても。これは男に共犯が存在するということを意味しているとも取れるし、あるいはヒュー・ジャックマンと男が運命に雁字搦めにされてそれぞれもがき苦しむことを意味するとも受け取れる。いや、深読みかもしれない。ある程度までネタを割ると、実は娘たちは監禁されていたことが明らかになる。彼女たちのことを指した言葉、と解釈すれば腑に落ちる。

とまあ、スジの話ばかりしてしまったのだがこの映画を観てみようと思ったのは監督作『メッセージ』『ブレードランナー2049』でやられてしまったドゥニ・ヴィルヌーヴが撮った旧作であると知ったからである。前者二作はそれぞれサイエンス・フィクションで味わい深いものだったのだが、この映画は現代劇でスリラー。しかも極めて正攻法で攻めている。じわじわと真相を明かしていくストーリーテリングは堂に入っており、こちらを飽きさせない。ややデヴィッド・フィンチャー『ゾディアック』を思わせるところもあり(ジェイク・ギレンホールが出ているからだろうか?)、興味深く楽しめた。

観終えたあと他の方のレヴューを読んだのだけれど、この映画はキリスト教の知識があれば楽しめるらしい。私はそういう知識はないので、例えば刑事の名がロキであること(「異教徒」という意味だそうだ)もあとから学んで、読めてなさというか怠慢を恥じたところ。他の方の解説文をしっかり読んでみたいところだ。大雑把なテーマとしては、運命に雁字搦めにされてしまいながらそれでも切り抜けようとする人には救いが与えられる――少なくともそのチャンスは与えられる――ということなのかもしれない。ラストはそういうハッピー・エンドとして読めるのではないかと思ったのだ。

そう考えてみれば、ドゥニ・ヴィルヌーヴはブレてないとも思われる。『メッセージ』『ブレードランナー2049』も主体性を取り戻した人たちの話だったし。アイデンティティに拘泥するこの監督が撮った『複製された男』という映画も、早速観てみたいと思っている。