モーガン・マシューズ『僕と世界の方程式』

僕と世界の方程式 [DVD]

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今回はいつもにも増して纏まりのない話になる。

モーガン・マシューズ『僕と世界の方程式』という映画を観た。なかなか語るのが難しい映画だと思わされた。発達障害自閉症スペクトラムについて語られた映画なのだが、その語られ方は単純に斬って捨てることが出来ない奥深いものであると考えさせられたからだ。

発達障害(広い意味で言えば「自閉症スペクトラム」と書くのが正しいのだが、今回はこの呼称を使わせてもらう)について触れられた映画はそれなりに色々観て来たのだが、結局発達障害を取り上げるにあたってぶち当たるのは「定型発達者と比べてなにが優れて、そしてなにが劣っているのか」という、プラス・マイナスを問うてしまうという問題だ。普通の人よりも抜きん出た能力を発揮している、もしくは劣っていて困っている、という……。

この映画でも問われているのは、「数学においてずば抜けている」という過剰さの問題だ。そのずば抜け方が良い方向に薦めば良いが、それはしばしば定型発達者と(だが、定型発達者だってもちろん一枚岩ではないわけだが……)衝突する。この映画で主人公の発達障害者のネイサンを一番良く理解している父親が交通事故で、ネイサンを助手席に載せたまま亡くなるのは示唆的だ。理解者の喪失、ならびに乗り越えるべき「父」の消滅を意味しているからである。

「父」が、自分が殺す前に殺されてしまった……とすれば乗り越えるべき「父」の役割を、最もネイサンを愛している存在である母に投影するしかない。斯くしてこの映画では母が理不尽な理由で憎まれなければならなくなる(別の言い方をすれば、不在であるネイサンの父親が過剰に美化されなければならなくなる)。その理不尽な理由というのは、例えば中華料理をアウトテイクで買ったは良いが数が素数ではないとかそういう問題である。

その「父殺し」ならぬ「母殺し」をどう捉えるか。単なる思春期/反抗期の現れと捉えるだけではこの映画を見失ってしまうだろう。不在の父権を母親に一方的に託し、そしてそれを憎むという、自分で敵を勝手に作りその勝手に作った敵を自分で攻撃する(そしてそれによって自分自身をも傷つけてしまうという)自家中毒的な事態に陥るしかないのである。だから、この映画のネイサンに共感出来なければそれはむしろ自然なことなのだ。平たく言えば母親に対する八つ当たりや我が儘に見えるとしても、まあ当たり前である。

逆に言えば、この映画のネイサンの行動を無批判に共感してしまったとしたらそれは「発達障害者だからこそ受け容れなければならない」という逆差別に繋がり得るのではないか、と疑ってみた方が良い。ネイサンの行動は発達障害者特有の拘りから生じることなのだが、その拘りが社会と衝突している時に過剰に発達障害者の困り感を「個性」に掏り替えて褒めちぎるようなことをしてはならないだろう。

その母への攻撃は、しかし新たなる「父」的存在が現れることで止む。ネイサンの理解者であるかのような教師・ハンフリーズの出現だ。ハンフリーズの手解きでネイサンは数学の才能を伸ばすことになる。それは同時に乗り越えるべき敵が眼前の母ではなく数学の世界に実在すること、ないしは母が敵対すべき相手ではなかったことを理解することを意味するのだろう。この映画のエンディングが印象的なのは、母を正しく理解するまでネイサンが成長したからなのだ。それはネタを割るが、助手席にネイサンが座り母の手を握るという形で現れる。

面白いなと思うのは、この映画が発達障害者の特性を褒めちぎるわけではないことだ。この映画では発達障害は――正確には台詞では「自閉症」と書かれるが――『モンティ・パイソン』のギャグを表現しようとする男の子にも現れているものとして描かれる。つまり、ネイサンひとりだけが発達障害者ではないということだ。発達障害者/自閉症者であるその男の子は数学の才能がネイサンより劣っているが故に選別から外されることを宣告される。つまり、「発達障害者だからこそ数学が優れている」なんてことにはならないのである。

そこをきっちり描いたところに私は美点を見出した。だが、裏返すとそれを描いたことで「発達障害者が必ずしも人と比べて優れているわけではない」という話になり、そこから先にどんな結論が待っているのかと思うと……これ以上は書くのは野暮というものだろうが、結局は当たり前のことを当たり前に描いたというだけでそこから先が見えない、とは言える。従ってこちらの心に必ずしも良作/傑作として響いて来ない。佳作、ないしは惜しい作品だと思った。

……印象に残るショットがなかったことと、あとは私自身も発達障害者であることが加味されて結局こんなありきたりな話に終わってしまった。なかなかトレンドな社会問題を扱うのは難しいものである。ポリコレ棒でぶん殴られる恐れがある中で、フェアに発達障害自閉症を描いた作品としてその誠実さを買うことは出来る。

ラスト・シーン。ネイサンはどうなったのだろうか。彼はもしかすると、母を憎んでいた自分、そして父に呪縛されていた自分自身こそが最強の「父」であると思い、その「父」を殺すことに成功したということなのだろうか。そう考えると爽快感の理由が分かる。