ショーン・ベイカー『フロリダ・プロジェクト』

フロリダ・プロジェクト  真夏の魔法 [DVD]

フロリダ・プロジェクト  真夏の魔法 [DVD]

 

どんな大人も、子どもだった時期を通り過ぎて育つ。つまり、大人たちはある意味では「元子ども」とも言えるわけである。その事実を忘れてしまった人は、他人のことを「子どもっぽい」「大人らしくない」と揶揄したり叱ったりすることになる。むろん、子どものまま生きていくことは出来ないだろう。社会的責任を負い、それこそ我が子を育てたり働いたりして生きていかなくてはならない。だが、だからといって子どもであった事実を忘れて生きることは正しいのだろうか。『フロリダ・プロジェクト』を観ながら思ったのはそういうことだった。

アミューズメント・パークがある。明示はされないが多分ディズニーランドだろう。言うまでもなく日常的な事物が排除された明るい場所だ。そんなアミューズメント・パークの周辺のモーテルに、子どもを連れたシングルマザーが住んでいる。子どもであるムーニーは他の子どもたちと一緒にやんちゃな遊びに興じている。その日その日を思いっ切り楽しみ、廃墟を冒険したり虹を見たりして生き生きと過ごしている。一方母親のヘイリーは、その日暮らしの地獄のような日々をふてぶてしく生きている。どうやって日銭を稼ぐかを考えて……ふたりの姿、ふたりの時間が対照的に描かれる。

事務的に言ってしまえば、あまり感心しない映画だった。ストーリー展開において平板に感じられたのである。そこはスジでしか映画を観られない私の限界だったのかな、とも思う。観る人が観ればこの映画で光るショットを幾つか観られたはずだ。先にも書いたが虹を見る姿、あるいは子どもたちの走る姿……この映画では子どもたちが本当に良く走る。生き生きと動いている。それはさながら是枝裕和の映画を観ているかのよう。資質的にこの監督は是枝裕和と似ているのかもしれない。まだ観ていない『タンジェリン』を観たくさせられてしまった。

是枝裕和を思い出すと同時に、うだつの上がらない日常がべったり描かれる(そして、日常の中にこそマジカルな要素があることを教えてくれる)作風で言えばケン・ローチを思い出したり、あるいはウェイン・ワン『スモーク』のような映画を思い出したりもした。このあたりは毎度ながら頓珍漢な思いつきになってしまう。社会派、もしくはヒューマン・タッチ、と整理してしまうのは無粋だろうか。人を突き放した人工的なところがないのだ。貧乏暮らしの生々しさ、そこで生きる人々の暖かい人情味というものはこちらをたじろがせるほど伝わって来る。

ムーニーたちの日常の楽天性、永遠に終わらないかのようなヴァカンスに興じる日常はしかし、危ういヴァランスの上に支えられている。アミューズメント・パークの楽しさと競い合うようにムーニーたちはその日その日を思いっ切り楽しむ。ダイナーで料理を沢山食べたり、空き家に入って放火したり……でも、そんな楽しい人生、享楽的な生活なんて続きやしない。その現実の冷淡さはきっちりと描かれており、決して夢物語に終わらせなかったことに私は好感を抱いた。

だからこそ、とも思うのである。もう少しメリハリのある展開にはならなかったものか、と。いや、リアリズムをべったりと描くのであればそれはそれで良いのである。起伏もなにもない、ただ人が生きて暮しているその事実を淡々と描く、およそエンターテイメントとは真逆の姿勢……だというのであればそれはそれで工夫の余地がなかったかな、と。このあたり、私と監督の相性の問題もあるのだろうけれど、例えば POV の視点を取り入れるなりなんなり撮り方の工夫はなかったかな、と思う。一本調子なところを誠実さの表れと捉えるか、そのギミックのなさを芸がないと捉えるか。難しいところだ。

子どもたちにとって、日常を生きることはそのまま冒険することだろう。なにもかもが初体験。大人たちにとっては既に見慣れた光景である、例えば倒れたまま育つ樹木も子どもたちにしてみれば生命力の漲りを意味するものとして、シンボリックに映る。どんなつまらない事物をも自分たちの世界に引きずり込んで、アミューズメント・パークとはおよそ縁のない荒廃した郊外の日常をもアミューズメント・パーク化してしまう。その逞しさが、あるいは観る人を勇気づけるのかもしれない。

あるいは、あまりこの映画を前のめりに観られなかったのは私が男だからかもしれない。この映画は女性たちの映画なのだ。貧困に身をやつすシングルマザーの話であることは書いた。詐欺や売春で生計を立てる彼女たちのリアルを、私がきちんと想像するだけの力/能力を備えていないからなのかな、と……ヘイリーとその他の女性たちは時に殴り合い、時にいがみ合う。子どもたちが立場を超えて理解し合いワイワイと遊ぶのとは全然違うのである。

子どもたちは日常を満喫する。大人たちは日常に苦しむ。だが、どの人物も悪人ではない。安直な悪人を登場させて、その悪人さえ始末すれば全てが解決するというようなメッセージを放たない。その点で弱いと言えば弱い映画である。だが、それは実に真っ当な態度というべきではないだろうか。この映画を読みこなすことは、実はとても難しいことなのかもしれない。私自身、勉強の余地があるようだ。