ラース・フォン・トリアー『ドッグヴィル』

ドッグヴィル プレミアム・エディション [DVD]
 

タイトルの「ドッグヴィル」は舞台となる村の名前で、直訳すると「犬の村」という意味になる(何故このタイトルなのかはエンディングで明かされる)。村にとある女性が迷い込んでいた。彼女はどうやらギャングに追われているらしい。名前はグレイス。村の人々は閉鎖的で彼女に対して冷たかったのだけれど、ひとりの村人であるトーマスが彼女に恋をして、彼女を救おうと孤軍奮闘する。村人たちもそんなトーマスの努力に渋々頷き、やがてグレイスと幸せな共同生活を始めることになる。しかしそれは長くは続かなかった……というのがプロットである。以下ではネタを割る。

この映画を観終えたあと、私は自分が観たものがナチスプロパガンダではなかったのかとキョトンとしてしまった。「反」ナチスではない。ナチス民族浄化と淘汰主義そのものだ。何処から語ったら良いだろうか。『ドッグヴィル』は胸糞悪い映画として評価されており、確かにそうだなと思わされたのだがバッドエンドで終わる映画なら数多とある。『ドッグヴィル』はそんな「胸糞悪い」という次元のものではなく、むしろ私にとって「許せない」映画として映ったのだ。この映画を受け容れることはナチズムを受け容れることに繋がるのではないか、と。

何処からそう思ったのかネタを割る必要があるようだ。ドッグヴィルの住人たちは、彼女を決して村人としては認めない。それどころか、とある出来事が切っ掛けで彼女に冷たくあたり、村から出さない(彼女も村から出られない)。それどころか足枷を嵌められ、あらん限りの陵辱を加えることとなる。人間の醜さ、腐った部分が丸写しになる展開だ。ここだけでも既に胸糞悪いが、問題はここからである。ドッグヴィルにギャングたちが現れる。ギャングたちが探していたのは実は彼女がボスの娘だったからなのだが、ボスと彼女は車内で議論する。

ドッグヴィルの村人たちは醜い。許し難い。彼女はその事実を語り、彼らを赦せるかどうか父親と語り合う(この議論は、さながらドストエフスキーの小説のようにシリアスだ)。そして彼女が得た結論は、ドッグヴィルの住人たちの醜さを許さないというものだった。家屋に火を放ち、村人を虐殺する。それが、彼らにとっての救済であるというわけである。醜い存在は生かしておくべきではない。死んだ方が彼らのためにも良い、というわけだ。どうだろう。何処かで見たような光景ではないだろうか――そう、ホロコーストだ。

簡素なセットだけで出来上がった舞台で世界が描かれているのも偶然ではない。計算ずくのものだろう。もしリアルにこの映画を作ろうと豪華なキャストやスタッフを揃えて撮ったら、その映画はきっとアウシュヴィッツそっくりのものになるからだ。批判されれることを回避したからこそ、この映画はリアリティを欠いた舞台で行われなければならなかったのだ。だから、私たちはこの映画からアウシュヴィッツを――ダッハウでも良いのだが――発見しなくてはならない。そして、彼女(グレイス、つまり「慈悲」という名の女)がナチスの将校であることを指摘しなくてはならない。

なるほど、ストーリーテリングは流石に巧い。三時間ある映画なのだけれど、語り足りなささえ感じさせるほど無駄のないキビキビした脚本は良く練り上げられている。さっきドストエフスキーの名前を出したが、この映画はさしずめラース・フォン・トリアー版『カラマーゾフの兄弟』なのではないか。そう考えれば「大審問官」の議論とも共通するものが読み取れる。ラース・フォン・トリアードストエフスキーを読んでいるか? そこが興味深いところだ。話を戻すと、この映画が『カラマーゾフの兄弟』に比肩する出来栄えであることは認めるに吝かではない。

だが、だからこそ「許し難い」のだ。「慈悲」という名の下に、人々が――醜くエゴや欲望を剥き出しにして生きている人々が――どう罪深いからと言っても殺されるべき理由なんてないに決まっているからだ。ましてや、殺される理由が彼らを「赦す」ためなんて思い上がりも良いところだ。ラース・フォン・トリアーは調べたところによるとナチを支持する発言をしたり(後に撤回したが)、なかなかの曲者であるらしい。これこそ知能犯の作品、といったところか。私はこの映画を認めない。面白い。だからこそ支持しない。

この映画と比べればミヒャエル・ハネケファニーゲーム』なんて胸糞悪くもなんともない。『ファニーゲーム』? あれは酸いも甘いも噛み分けた大人が仕掛けた、「ゲーム」にも似た高笑いが聞こえてくるような「ファニー」な映画だったではないか(念の為に書いておくが、これ、褒めてます)。『ドッグヴィル』は全く自分の罪深さが分かっていない映画であり、無自覚なファシズムを丸出しにした作品なのである。そして、言うまでもないだろうがファシズムほどチャーミングなものもこの世には存在しない。そのチャーミングなファシズムを、少なくとも私は許さない。