トッド・ヘインズ『ワンダーストラック』

ワンダーストラック [DVD]

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ダメだな、と思った。この映画は、少なくとも私の心には響いて来るものがなかった。

トッド・ヘインズの作品は『キャロル』程度しか観ていないのであまり詳しく語れないのだが、『キャロル』でもそうだったが彼の音楽の使い方は巧い。そこは好ましく感じられる。『ワンダーストラック』も音楽/劇伴にかなり助けられている映画だなと思わされた。それは認めるに吝かではない。

ただ、裏返せばそれ以上のものがなかったのだ。この映画はふたつのストーリーが入れ違いに展開され、最後にひとつに結びつく。一方はローズという女性をめぐる物語。彼女が生きる世界は映画がサイレントからトーキーに移り変わる時期、つまり大昔だ。もう一方はベンという少年をめぐる物語。これは現在なのだろう(だが、彼がスマホタブレットを持っていないことを鑑みると違うのかもしれないが……)。

この映画を観ていて、私はスティーヴン・ダルドリーものすごくうるさくて、ありえないほど近い』という映画を想起した。あの映画もまた少年の冒険を描いた映画だったからだ……先走りし過ぎたようだ。『ワンダーストラック』のスジを少し紹介すれば、ベンという少年が父親を探してミネソタの田舎から都会に出て来るという話だ。だが、ベンは言葉を聴くことが出来ない。事故に遭って以来耳が不自由になってしまったのだ。都会で彼は彷徨う。その過程で「FRIEND」となる男の子と出会う。彼らは博物館で意外なものを目にする……それが大まかなスジである。

と書いてみたは良いものの、この映画はベンが父親を探す動機が今ひとつ見えづらいきらいがある。何故ベンが必死になって都会に出て来るのか、そのバックグラウンドにある動機づけが見当たらないのだ。闇雲に父親を探しているだけで、彼のファザコン的な性格の肉づけが為されていない。あまり言いたくない言葉になるが、「人間が描けていない」ところがある。それが惜しいなと思わされた。『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』のオスカー少年とその意味では対照的だ。

あるいは、ベンに友だちが出来るあたりもベンの孤独感をもう少し丁寧に描けば良かったのではあるまいか。聾唖になってしまったベンが、例えばそれ故にいじめに遭うとか心を閉ざしてしまうとかそういう展開があっても良かったのではないかと想うのだ。そういう友だちとの交流も説得力を欠くので、取ってつけたような感動しかあとに残らない。その意味では中途半端な作品のように感じられる。

興味深い題材を扱っていることは言を俟たない。耳が不自由な人にとって世界がどう見えるのか……『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』ではアスペルガー症候群発達障害者の人物から見た世界が描かれていたのだったが、『ワンダーストラック』では聾唖者のリアルが描かれる。音が全く聴こえない人が世界をどのように知覚しているか? ベンもローズも耳が不自由ということでは一致しており、同じ悩みを抱えている人間であることが分かる。彼らは意外なところで出会うのだが、それは観てのお楽しみということにさせていただきたい。

だが、無音で映画を展開させていくということは言うまでもなく「台詞に頼らないで映画を進行させる」ということである。気の利いたフレーズではなく、言葉を介さないで――むろん手話は披露されるが――コミュニケーションが行われる。そのコミュニケーションのあり方はこちらの自明性を崩させるものであることは確かだ。言葉によって(お好みの言い方をすれば「パロール」によって)コミュニケーションが成り立つ、その土壌を崩す試みが為されていると言えるのだ。

だから、この映画は野心的である。サイレント・ムービーにも似た側面が見えるわけだからだ。過剰に説明的な台詞に慣れた人間(私も含む)には新鮮に映るだろう。だが、その静寂だけで引っ張っていくには辛いものがあるように感じられたこともまた確かだ。もっと台詞を展開させるなり、言葉を使わないなら使わないなりに斬新な当事者の体験をリアルに描くべきではなかったか。このままでは耳が不自由な人のリアルは描けていないように感じられる。尤も、私は耳が不自由なわけではないのでなんとも言えないのだが――。

従って、この映画は心に響くものがそう感じられない。主人公の動機が弱く、かつ主人公が聾唖の人間として直面する悩みもまた説得的に描かれているとは言い難い。そして「FRIEND」を探す過程も何処かご都合主義的というか、彼らの絆の描き方も弱い印象を受ける。ふたつのストーリーを入れ子で展開させるという手法に淫し過ぎてしまったのではないだろうか。両者はシンクロするところがあり、その意味では脚本の完成度は高い。だが、それ以上のなにかが欲しいところなのだ。ないものねだりだろうか。

ローズのパート、つまりモノクロームの映像は美しい。これは流石はトッド・ヘインズという印象を受けた。こういう映像美の輝きもあとひと捻り欲しかったというのが正直なところ。この映画に興味を持った方は『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』をご覧になることをお薦めしたい。きっと刺激的な映画体験になるだろう。