ケン・ローチ『わたしは、ダニエル・ブレイク』

わたしは、ダニエル・ブレイク [DVD]

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私は英語は全く出来ないのだけれど――特にこの『わたしは、ダニエル・ブレイク』の英語は訛りが強過ぎて全然聞き取れなかったのだけれど――とある表現だけは聞き取れた。「Be Yourself」。いつもの自分で居ろ……この言葉と、「尊厳を失ったら(人間は)終わりだ」という主人公ダニエル・ブレイクの台詞が映画そのものを彩っているように思われたのだ。今回の鑑賞が三度目になるのだけれど、相変わらずこのふたつの言葉が胸に突き刺さって来るように思われた。ケン・ローチが辿り着いた境地、ブレないで表現し続けているメッセージが凝縮されている、と。

主人公ダニエル・ブレイクは大工だが、心臓に持病を抱えており就労は禁じられている。福祉の世話になるしかない。だが、福祉のケアを受けるにも五体満足で働けると判断されてしまい、どうしようもない。求職活動実績が必要とのことで慣れないパソコンの操作を覚えたり履歴書を書いて活動したりしてみるが、それは結局のところは「仕事を求めた」ということを示すためだけのものなので働こうにも働けない。カフカ的な不条理の毎日を送る彼は、とあるシングルマザーと出会い心の交流を始める……それが本作のプロットである。

ケン・ローチは――全ての作品を観てきたわけではないが――一貫して社会への怒りを映画という形でぶつけて来た。しかしそれは「社会=悪」という分かりやすい図式に落とし込むことではなかった。社会を悪と見做し糾弾する映画なら、ケン・ローチ以外にも沢山の造り手が存在する。そういう社会派の監督は(全てが全てそうだと言いたいわけではないが)、社会を変革させれば全てが上手く行くと思っている。しかしケン・ローチの思索はもっと深い。貧民の私たちもまた社会悪に手を染めたりしていないか? 具体的に顔が見える悪人たちもまた社会の犠牲になっては居ないか? と問うているのだ。

この映画は音楽が全くと言って良いほど流れない。無駄な台詞も一切ない。もちろん、無駄なシーンも存在しない。敢えて言えば登場人物たちがひょこひょこと歩き回る場面が印象に残るくらいだ。それは彼らが移動の手段の自転車や自動車を持っていないことを意味するからなのだけれど、そういう何気ない日常の場面がこの映画にリアリティを生み出すことに成功していると思う。観ながら、これはアンプラグドの世界だなと思わされた。音を極限まで絞り抜いた熟達したミュージシャンの演奏……そんなものを連想してしまったのだ。

だから、劇的な展開を期待して観ると肩透かしを食らうだろう。ケン・ローチはあくまで貧民たちの、そしてお役所仕事の日常を淡々と語る。飢えて、フードバンクでもらった缶詰めに手をつけるシングルマザーのケイティの行動はなんら劇的に描かれない。だが、ドキュメンタリー映画にも似た何気ない演出が逆にその場面を生々しいリアリティを伴ったものとしてこちらに問い掛けてくる。本当の貧困とはなにか? とことんまで困り抜いた人たちに必要なものはなにか? この映画は今の日本の状況でも決して違和感を伴って観られるものではないと思う。つまり絵空事ではないのだ。

ケン・ローチからはいつも教えられる。どんな状況でもユーモアを以て生きること。他人に対して優しくあること。だけど敵、つまり自分を抑えつける人間たちに対しては徹底的に逆らうこと。自分自身であり続けることを恥じないこと。ダニエル・ブレイクの生き様、彼が残すメッセージはこうやって言葉にしてしまうととても陳腐だ。だけど、忘れてはいけないことでもあると思う。この映画はそんなケン・ローチのメッセージが渋くなり過ぎることなく、滑るギャグもなく伝わって来る良作だと思った。彼の世界を知りたい人はこの映画から観てみるのも手ではないだろうか。

最後の最後、ダニエル・ブレイクは負けたのだろうか? ネタは割らないが、ケン・ローチの良心があの手厳しいエンディングに示されていると思った。問題はなんら解決していない。映画の中では解決しても、リアルで本当に困り抜いている人たちにとっては問題は手つかずのまま残っている。それを直視しろ、とケン・ローチなら語るだろう。映画はカタルシスを得るための娯楽ではなく――いや、そういう娯楽ももちろん優れたものは素晴らしいのだが――現実と直視するための媒体なのだ。だからこの映画に不快感を持つ人も存在し得るだろう。

エンターテイメント的に見れば、ドキュメンタリー・タッチが強過ぎて派手なアクションもロマンスもなく、従って面白くないかもしれない。だけど、見掛けの地味さに騙されてはならない。ケン・ローチのブレなさ、動じなさは凄まじいと思う。今の日本で生き延びるためにも、この映画は必見ものだと思われる。観て損はしないはずだ。私自身福祉の世話になって生きている身なので、今回の鑑賞でも引き込まれてしまった。安直に他人をネトウヨ認定する類の人たちこそ、本当の左翼とはなにかを知るためにも観て欲しい作品だ。