クリント・イーストウッド『ヒア アフター』

 

ヒア アフター [DVD]

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私自身の話をする。私は1975年に生まれた。ロスジェネというやつだ。それに加えて発達障害者であることが分かり、大変生きづらい思いをして来た。今もしている。自殺未遂は二度やった。流石に三度目はないと思うが、まあ、下らない人生だったと思っている。それでも、私は私なりによくやった、と。

クリント・イーストウッドヒア アフター』を観た。私自身の死がいつ訪れるのか分からないが、私は御多分に漏れずこの映画を観ながら自分自身の死を考えさせられた。死と愚直に対峙すること、そしてそれを踏まえてなお前向きに生きるということの重みを感じさせられたのである。と書くと説教臭い映画に感じられるかもしれないが、この映画はある程度まではそういう「説教臭さ」はある、と思う。だが、それが押しつけがましくならないで上品に/渋く伝わって来るのは流石はクリント・イーストウッドだなと思わざるを得ない。

三人の登場人物がそれぞれ三本のストーリーを生きる。フランス人のジャーナリストが離島で津波に呑まれて臨死体験をする。それを書籍にするもなかなか理解してもらえない。彼女はしかし諦めない……という話。ふたつ目は、霊能力を持つ男が居る。だが彼はその能力故にいつも孤独を体感してばかりで、まともに人生を生きて来られなかった。自分にとってその能力は「呪い」だと語る。だが金銭面に困りその力を使うべきかどうか悩む、というもの。三つ目は双子の兄弟の兄が突然の死に襲われ、弟は生きる気力をなくしどうにかして兄とコンタクトを取りたい、というもの。これらが最後の最後で重なり合う。

クリント・イーストウッドの美徳として、クローズアップはさほど(私がニブいから単なる勘違いかもしれないが、少なくとも昨今の邦画・洋画ほどには)使われないというものがあると思う。バストショットが基本的であって人物が大胆にどアップで撮られることがない、という。このあたりはスクリーンの時代を生き抜いて来た監督のこだわりを感じさせられて、だからこそ重量感があって渋い魅力を放っているのかもしれないなと思わせられる。『ヒア アフター』もクリント・イーストウッド節で撮られた映画と言える。まあ、同じ人が撮っているのだから当たり前といえば当たり前だが。

しかし、この映画は少なくとも(私がフォローが回っていないだけなので、『ミリオンダラー・ベイビー』のような作品を観てから考え直したいところなのだけど)他のクリント・イーストウッドの映画のようには行かない。渋いのは渋いのだけれど、それに加えて何処かメロウなのだ。こちらの涙を誘っているところがある、というか。「感動」を喚起させるのを狙っている、と受け取られても仕方がないところがあると思う。現に最後の最後、マット・デイモンが黙り込んだ隙間を音楽が埋めるところが何処かメロドラマティックに感じさせられる。

さて、この現象をどう捉えるべきなのか。クリント・イーストウッドが泣かせに行った? そう考えることも出来ないでもないだろうけれど、私は採らない。むしろ、クリント・イーストウッドのような周到にメロドラマを避ける監督でさえも、死という題材をテーマに扱うとなると己自身の実存を賭けた作品作りに終止してしまうという――だから何処かセンチメンタルになってしまうという――恐ろしさなのではないかと思うのだ。この映画を観ながら例えば(私は音楽から映画に入った人間なので、古い喩えを持ち出すなら)それまで燻し銀の作品ばかり作っていたDJクラッシュが『漸』で垣間見せたメロウな一面を思い出した。『漸』もまた、Twice というひとりのアーティストの死をめぐって綴られたアルバムなのだった。

だから、この映画がクリント・イーストウッドの変節を告げるものかどうなのか私には分からない。改めてこれまで彼の作品をきちんとフォローして来なかったことを恥じるばかりだ。ただ、死生観を描いていながらオカルトめいたところはなく、マット・デイモンに「自分の人生を自分で生きろ」というように――それは兄の遺言として、あるいはマット・デイモン自身の言葉として?――語らせているあたりはブレていない。クリント・イーストウッドはやはり根は「自力」の人なんだなという印象を抱いた。これが頓珍漢なものでなければ良いのだけど。

ともあれ、私自身もこの映画を観たことで自分自身の死について考えさせられた。こんな体験は黒澤明『夢』を観た時と同じだ。あと語るなら 3.11 以前にこの映画が撮られたという意味と、「以後」に私たちが観る意義についてなのだけれどこれらについて考えるのは流石に長くなり過ぎるのでパスする。それに、下らない私の戯言に落とし込むにはやはり 3.11 は生々しい。ただ、クリント・イーストウッドが 3.11 以後にこの作品をリメイクしたらどんなものになるだろうか、とあらぬ想像をすることは許されないだろうか?